スラブ叙事詩 01~05

1.元の母国のスラヴ人 1912年、610×810cm
Slovaně v pravlasti
マテイ・ヴルボウスキー

1マテイチェコを代表する画家といえば、20世紀の始めごろのアール・ヌーボーの旗手、アルフォンス・ミュシャが挙げられます。そしてミュシャによって描かれた作品の中では、スラブ人の歴史の代表的な出来事を、20枚の巨大な絵に描写した「スラブ叙事詩」という名作が恐らく最も有名でしょう。この文章では、「元の母国のスラヴ人」というスラヴ叙事詩の第一作をまず紹介し、そして次にその絵を解釈したいと思います。紹介では絵が描写している光景を説明し、解釈ではその光景の意味を検討したいと思います。

それではまず、紹介から始めます。描いた場所は野原で、時間は夜です。背景に星に満ちた夜空、また左方の奥に炎が見えます。絵に登場する人物は三つのカテゴリーに分けることができます。一つ目は後ろで凶暴に略奪する野蛮民族の群れ、二つ目は前に恐怖で目を皿のように開き、野蛮民族から隠れている二人のスラブ人、そして三つ目は宙に浮いている三人のグループです。
次に、絵の解釈へと続けたいと思います。「元の母国のスラヴ人」という名前から判断すれば、絵に描いた光景の場所は恐らく、スラブ人の起源とよく言われる現代のウクライナの辺りでしょう。そして登場人物の服装から見れば、時代は紀元後5世紀~6世紀と推測できます。また、この作品の副題は「トゥーラーンの鞭とゴート族の剣の間に」なので、後ろに暴れている野蛮人が中央アジアからのイラン系民族と、そして中央ヨーロッパ出身のゲルマン系民族とも言えるでしょう。二つ目のグループはいわゆる「スラブ人のアダムとイーヴ」、野蛮人から逃げているスラブ人男性と女性です。女性の握った道具は武器ではなく、麦を刈る鎌です。その上、彼らの平和を代表する白色の服、それから敵と戦うより逃げる態度で、ミュシャが昔のスラブ人の平穏な生き方を主張していることがわかるでしょう。まとめれば、暴れている野蛮人、またそれらから隠れているスラブ人がこの絵の歴史的な、つまり現実的な側面だと言えます。

だが、それに対して宙に浮いている三人組の超越的な側面もあります。この三人のグループは何を代表するかと言えば、左に浮く赤色の服の着ている「正義のための戦争」の神、真ん中のスラブ異教の司祭、それから右に白い服の平和の女神、すなわちスラブ人の宗教的な側面を代表していると思われます。これがスラブ人の多神教の象徴でもあり、またはスラブ人が平和と正義を望む信念のモチーフでもあるでしょう。要するに、この「元の母国のスラブ人」という作品では、二つの側面が絡んでいます。まず、昔のスラブ人の難儀な生活という現実と、それから平和と正義を望むスラブ人の信念という超越的な側面がこの「元の母国のスラブ人」だと考えられます。

2. ルヤーナで行われたスヴァントヴィートの祝賀会 1912年、610×810cm
Slavnost Svantovitova na Rujaně
カトカ ローロヴァー

2この絵画は卵テンペラとオイルが使われ、人の高さを超える大きな作品である。絵画の寸法はちょうど610×810センチメートルである。テンペラに暗い色合いがあって、絵画の構図が多層である。絵画は1912年に完成した。
この絵画には、異教徒が収穫の祝宴を張っている場面が描かれている。異教徒といえども祝宴はスヴァントヴィートという神の名のお祝いでもあるが、キリスト教の解釈の上では、異教徒として呼ばれるのみである。祝宴が行われる場所はルヤーナというバルトの島で、国の首都はアルコナである。収穫のお祝いにお祈りを捧げたり、感謝の歌を歌ったり、血なまぐさい生贄を捧げている。
その後、時間が少し経過してから、この国はデンマークの軍隊によって征服されることになる。その予想をもって、ミュシャがこの絵画を作った。デンマークの警戒を象徴するのは上部左側に描かれたトールというバイキングの神とその狼である。バイキングの征服のせいでバルトのスラブの文明が衰え始めた。

絵画を見ると、愉快なイベントと同時に本当に何かの恐ろしいことを感じることができる。確かに、ゲルマニア族の軍隊だということはヘルメットを見て分かるが、バルトのスラブの歴史を知らない私は上記の警戒する気持ちはなかった。実は、私の最初の感想は少し不愉快であった。一見して収穫の祝宴に見えないからかもしれない。下の端の真ん中にある女性の顔の表情と彼女の隣に死んでいるような男の人の姿が私を暗い気分にさせる。
逆に、踊っている女子の姿を見つけると、愉快な気持ちも感じさせる。しかし、それはちょうどバイキングの軍人の下に描かれていることで、ミュシャはもしかしてゲルマニア族による警戒に重点を置きたかったかもしれない。全然そうではないかもしれないが。芸術にはいつも様々な解釈があると思う。
この絵画に関する感想を述べると、私にとっては恐怖をもたらす作品である。もちろん、神も描かれているので、自然を超える気持ちも感じた。私の好みにはあまり合わないけれども、やはりミュシャが作成したこの偉大な作品は高く評価されるべきだと思う。

3. 大モラヴィア国へのスラブ式典礼の導入 1912年、610×810cm
Zavedení slovanské liturgie na Velkou Moravu
シモン タマキ

3シモンこの絵は大モラヴィア国へのコンスタンティヌス(Konstantin)とメトディオス(Metoděj)によるスラブ式典礼の導入場面を描いた作品である。
大モラヴィア国は9世紀前半、中欧で形成されたスラブ人最初の国家だった。しかしその時、この地域では西ヨーロッパのラテン語の影響が強く、キリスト教の礼拝も庶民が分からないラテン語で行われていた。それ故、大モラヴィアのロスチスラフ公は独立した教会機構を創る決心をした。法王に許可をもらい、ロスチスラフはビザンチン皇帝ミカエル三世に、スラブ語で神の言葉を教える僧の派遣を要請した。
863年に二人の僧のコンスタンティヌスとメトデウスが、サロニカ からモラヴィアに着いた。彼らは最初のスラブ・アルファベット(グラゴル文字)を作り出し、聖書の一部を古代スラブ語に翻訳した。
ムハ(フランス語発音でミュシャ)はこの画面を二つの層に分けた。一つは中心となっている明るい色調の場面と、それとは対照的な陰影を付けた象徴的な浮かび上がる姿の場面である。画面は880年にメトデウス が、ローマへの巡礼から大モラヴィア国への帰りを描いている。新しいスヴァトプラク公は右の玉座に坐り、法王の手紙を読んでいる司祭の声を聞いている。髭のあるメトディオスと二人の従者は画面左方に描かれている。画の右上方には四つの姿が見えて、キリスト教をスラブ語で広めた統治者たちが描かれている。手前に見える少年は拳を握って力を表し、もう一方に手に持っている輪はスラブ民族の統一と調和を象徴している。

この絵を観たとき、最初にその巨大さに驚き、穏やかな色彩は目に快く映った。一番目を引くのは少年が手に持っている輪だが、全面は堂々とした印象を与える。もう少し近づければ、沢山の細部が見えるようなる。例えば右下に三つの蛇の像があって、そこに花が咲いている。この絵が制作されてから100年が経った。そして大モラヴィア国へのコンスタンティヌスとメトディオス兄弟の到来から1150年が経過した。チェコとスロバキアでは7月5日はコンスタンティヌスとメトディオスの記念日となって毎年休日になるのだが、実はチェコでは住民の注意があまり引かれていない休日だと思う。スロバキアでは重要な記念日となって、様々な記念祭や文化イベントが行われているそうである。
ムハは兄弟のメッセージをスラブ民族の文言的・信仰的な統一の意味で表した。しかしたったその100年後の現代を観れば、実態の差は著しい。諸スラブ民族の統一のアイディアは過去のものとなって、代わりにヨーロッパ連合が様々な話題に立ち向かっている。自分の国の歴史と国家的の認識の意味がこれほど早く変わることに驚きを感じた。

4.ブルガリアのシメオン皇帝 1923年、405×480cm
Car bulharský Symenon
アナスタシア ジャルコーワ

4アナスタシアブルガリアの歴史人物の中からミュシャはブルガリアのシメオン皇帝を選んだ。10世紀シメオン皇帝の支配は、ブルガリア帝国のもっとも栄光に満ちた時代だったからだ。赤、青、金色などの色彩に富んだこの絵を見て、繁栄しているシメオン皇帝の支配を想像した。
ミュシャが注目したのは、シメオン皇帝の文化方面での活動だ。シメオン皇帝ビザンチンで教育を受けた人物で、彼の帝国はスラブ教育と文学の重要な中心地となった。大ペレイェスラフというシメオン王国の首都で、自分を生徒たちで囲んで、ビザンチンの文学をスラブ語に翻訳した。
画面の中で玉座に座り、赤と銀の衣服をきているシメオン皇帝は、作家、科学者、僧たちに囲まれている。シメオン皇帝は何かを書き取らせていて、ほかの知識人は文献を読んだり、スラブ語に訳したり、書き記したりする。古文の本や巻物などの文献がスラブ民族の過去と将来との結合を象徴していると思う。シメオン皇帝は、この絵の中心人物で、彼の権威や高潔さが感じられる。

この絵をみて、スラブとビザンチンの模様が両方混じっていて、面白いと思った。ミュシャが実際に取材旅行をして、東方のモチーフで感銘を受けて、ビサンチンとスラブの双方の装飾を使って、華やかなシメオンの宮殿を描いた。たとえば、絵の上部にはビサンチンのイコンが描かれている。ブルガリアで活躍していた司祭の肖像を描いたイコンである。その中にキリルとメフォディの弟子あって、ブルガリアに亡命したナウム、クレメント、アンゲラルの肖像も見られる。逆に、シメオン皇帝が座っているところの上のアーチはスラブ的な模様で装飾されている。

5.王プジェミスル・オタカル2世 1924年、405×480cm
Král Přemysl OtakarⅡ.
アネシカ フィアロヴァー

5アネシカスラブ叙事詩の5番目に描かれている王プジェミスル・オタカル2世という絵画は、有名なチェコの王を表している。プジェミスル家は10世紀にモラヴィア帝国が滅亡した後、ボヘミアで新しく現れ出た一家である。12世紀から14世紀までボヘミアはプジェミスル家によって統治されて、巨大な帝国になった。オタカルは1253年、父の死によりボヘミア王になって、帝国を築き続けた。ミュシャは王オタカルを姪の結婚式中に描いた。なぜかというと、中世に帝国を築くというのは、戦争を始める以外には、結婚政策を実施することだったからだ。その通りオタカルも姪の縁談を調えて、新しい領土を拡張できた。だからこの絵画はオタカルの栄光絶頂の時を見せている。絵画にはオタカル以外にほかのスラブの王が描かれている。しかし、それは歴史的には事実ではない。実は、ハンガリー王しか出席しなかった。ミュシャはスラブの民族が中世から統一されたということを表したかったから、歴史を変えた。

私はミュシャの作品は非常にきれいだと思うが、スラブ叙事詩を初めて見たときあまり好きにはなれなかった。なぜかというと、その絵画は全然誠実ではないという気がするからだ。誠実ではないので、人間の心を動かせない。もちろんスラブ叙事詩はほかのミュシャが描かれた作品と同じように、高い技法で、装飾を凝らしているし、観覧者に印象を与える。だが、残念ながらこの絵画が好きにはなれない。王プジェミスル・オタカル2世の絵画も私にそう思わせる。絵画を見ると真ん中に腕を差し伸びながら立っているオタカルの姿が見える。その周りに同じ立ち姿でほかのスラブ王も描かれている。この中心的な場面は絵画の残部と比べて、薄い色で強調されている。王様が腕を差し伸びながら立っている立ち姿はリアリティがなく私に不自然な印象を与えた。この場面はボヘミア王としてオタカルの栄光を表わそうとしていることがわかるが、立ち姿さえ信じられないと絵画の全部をまじめに受け取られないだろう。ミュシャは技術で歴史を変えてみたかったが、そのため彼の絵画が誠実ではなくなってしまったと感じている。スラブ叙事詩展覧会の小冊子を読むと、スラブ民族の栄光や有名なスラブ人に対しての敬意については理解できるが、本当にその気持ちを実感することはできない。ミュシャは偉大な画家ではないとは言いたくないが、技術が誠実でないとどんなに偉大な芸術家でも、いい絵を作ることができないと思う。

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