アルフォンス・ミュシャ「スラブ叙事詩」に挑む

日本でも有名なアルフォンス・ミュシャ(Alfons Mucha: 1860-1939)は、現在のチェコで生まれました。独特の感性で花や女性を描いたポスター画とともに、日本ではミュシャの名で知られていますが、チェコ語の読み方は「ムハ」となります。フランスやアメリカで活躍したミュシャが晩年に故郷に戻り、18年の歳月を掛けて完成した絵画が「スラブ叙事詩」です。「スラブ叙事詩」はこの地域に伝わる神話や歴史的事件をモチーフにした大作20枚からなりますが、それをカレル大学日本研究学科修士課程の学生が分担して、日本語で絵の歴史的背景や構図の説明、そして感想を書くことにしました。学生の絵に対する感想やその表現の仕方は様々ですが、彼らが属するスラブの歴史をミュシャの絵を通して日本人に知ってもらいたいという気持ちで書きました。

「スラブ叙事詩」展
プラハにあるヴェレトジェニー宮殿(Veletržní palác)にて、2013年12月末まで特別展示中です。

(展覧会受付の方のお話によると、2014年も引き続き同じ会場で展示を続ける予定だそうです。)

「スラブ叙事詩」展で展示されている作品はミュシャ財団(英語)のホームページでご覧になれます。

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スラブ叙事詩 01~05

1.元の母国のスラヴ人 1912年、610×810cm
Slovaně v pravlasti
マテイ・ヴルボウスキー

1マテイチェコを代表する画家といえば、20世紀の始めごろのアール・ヌーボーの旗手、アルフォンス・ミュシャが挙げられます。そしてミュシャによって描かれた作品の中では、スラブ人の歴史の代表的な出来事を、20枚の巨大な絵に描写した「スラブ叙事詩」という名作が恐らく最も有名でしょう。この文章では、「元の母国のスラヴ人」というスラヴ叙事詩の第一作をまず紹介し、そして次にその絵を解釈したいと思います。紹介では絵が描写している光景を説明し、解釈ではその光景の意味を検討したいと思います。

それではまず、紹介から始めます。描いた場所は野原で、時間は夜です。背景に星に満ちた夜空、また左方の奥に炎が見えます。絵に登場する人物は三つのカテゴリーに分けることができます。一つ目は後ろで凶暴に略奪する野蛮民族の群れ、二つ目は前に恐怖で目を皿のように開き、野蛮民族から隠れている二人のスラブ人、そして三つ目は宙に浮いている三人のグループです。
次に、絵の解釈へと続けたいと思います。「元の母国のスラヴ人」という名前から判断すれば、絵に描いた光景の場所は恐らく、スラブ人の起源とよく言われる現代のウクライナの辺りでしょう。そして登場人物の服装から見れば、時代は紀元後5世紀~6世紀と推測できます。また、この作品の副題は「トゥーラーンの鞭とゴート族の剣の間に」なので、後ろに暴れている野蛮人が中央アジアからのイラン系民族と、そして中央ヨーロッパ出身のゲルマン系民族とも言えるでしょう。二つ目のグループはいわゆる「スラブ人のアダムとイーヴ」、野蛮人から逃げているスラブ人男性と女性です。女性の握った道具は武器ではなく、麦を刈る鎌です。その上、彼らの平和を代表する白色の服、それから敵と戦うより逃げる態度で、ミュシャが昔のスラブ人の平穏な生き方を主張していることがわかるでしょう。まとめれば、暴れている野蛮人、またそれらから隠れているスラブ人がこの絵の歴史的な、つまり現実的な側面だと言えます。

だが、それに対して宙に浮いている三人組の超越的な側面もあります。この三人のグループは何を代表するかと言えば、左に浮く赤色の服の着ている「正義のための戦争」の神、真ん中のスラブ異教の司祭、それから右に白い服の平和の女神、すなわちスラブ人の宗教的な側面を代表していると思われます。これがスラブ人の多神教の象徴でもあり、またはスラブ人が平和と正義を望む信念のモチーフでもあるでしょう。要するに、この「元の母国のスラブ人」という作品では、二つの側面が絡んでいます。まず、昔のスラブ人の難儀な生活という現実と、それから平和と正義を望むスラブ人の信念という超越的な側面がこの「元の母国のスラブ人」だと考えられます。

2. ルヤーナで行われたスヴァントヴィートの祝賀会 1912年、610×810cm
Slavnost Svantovitova na Rujaně
カトカ ローロヴァー

2この絵画は卵テンペラとオイルが使われ、人の高さを超える大きな作品である。絵画の寸法はちょうど610×810センチメートルである。テンペラに暗い色合いがあって、絵画の構図が多層である。絵画は1912年に完成した。
この絵画には、異教徒が収穫の祝宴を張っている場面が描かれている。異教徒といえども祝宴はスヴァントヴィートという神の名のお祝いでもあるが、キリスト教の解釈の上では、異教徒として呼ばれるのみである。祝宴が行われる場所はルヤーナというバルトの島で、国の首都はアルコナである。収穫のお祝いにお祈りを捧げたり、感謝の歌を歌ったり、血なまぐさい生贄を捧げている。
その後、時間が少し経過してから、この国はデンマークの軍隊によって征服されることになる。その予想をもって、ミュシャがこの絵画を作った。デンマークの警戒を象徴するのは上部左側に描かれたトールというバイキングの神とその狼である。バイキングの征服のせいでバルトのスラブの文明が衰え始めた。

絵画を見ると、愉快なイベントと同時に本当に何かの恐ろしいことを感じることができる。確かに、ゲルマニア族の軍隊だということはヘルメットを見て分かるが、バルトのスラブの歴史を知らない私は上記の警戒する気持ちはなかった。実は、私の最初の感想は少し不愉快であった。一見して収穫の祝宴に見えないからかもしれない。下の端の真ん中にある女性の顔の表情と彼女の隣に死んでいるような男の人の姿が私を暗い気分にさせる。
逆に、踊っている女子の姿を見つけると、愉快な気持ちも感じさせる。しかし、それはちょうどバイキングの軍人の下に描かれていることで、ミュシャはもしかしてゲルマニア族による警戒に重点を置きたかったかもしれない。全然そうではないかもしれないが。芸術にはいつも様々な解釈があると思う。
この絵画に関する感想を述べると、私にとっては恐怖をもたらす作品である。もちろん、神も描かれているので、自然を超える気持ちも感じた。私の好みにはあまり合わないけれども、やはりミュシャが作成したこの偉大な作品は高く評価されるべきだと思う。

3. 大モラヴィア国へのスラブ式典礼の導入 1912年、610×810cm
Zavedení slovanské liturgie na Velkou Moravu
シモン タマキ

3シモンこの絵は大モラヴィア国へのコンスタンティヌス(Konstantin)とメトディオス(Metoděj)によるスラブ式典礼の導入場面を描いた作品である。
大モラヴィア国は9世紀前半、中欧で形成されたスラブ人最初の国家だった。しかしその時、この地域では西ヨーロッパのラテン語の影響が強く、キリスト教の礼拝も庶民が分からないラテン語で行われていた。それ故、大モラヴィアのロスチスラフ公は独立した教会機構を創る決心をした。法王に許可をもらい、ロスチスラフはビザンチン皇帝ミカエル三世に、スラブ語で神の言葉を教える僧の派遣を要請した。
863年に二人の僧のコンスタンティヌスとメトデウスが、サロニカ からモラヴィアに着いた。彼らは最初のスラブ・アルファベット(グラゴル文字)を作り出し、聖書の一部を古代スラブ語に翻訳した。
ムハ(フランス語発音でミュシャ)はこの画面を二つの層に分けた。一つは中心となっている明るい色調の場面と、それとは対照的な陰影を付けた象徴的な浮かび上がる姿の場面である。画面は880年にメトデウス が、ローマへの巡礼から大モラヴィア国への帰りを描いている。新しいスヴァトプラク公は右の玉座に坐り、法王の手紙を読んでいる司祭の声を聞いている。髭のあるメトディオスと二人の従者は画面左方に描かれている。画の右上方には四つの姿が見えて、キリスト教をスラブ語で広めた統治者たちが描かれている。手前に見える少年は拳を握って力を表し、もう一方に手に持っている輪はスラブ民族の統一と調和を象徴している。

この絵を観たとき、最初にその巨大さに驚き、穏やかな色彩は目に快く映った。一番目を引くのは少年が手に持っている輪だが、全面は堂々とした印象を与える。もう少し近づければ、沢山の細部が見えるようなる。例えば右下に三つの蛇の像があって、そこに花が咲いている。この絵が制作されてから100年が経った。そして大モラヴィア国へのコンスタンティヌスとメトディオス兄弟の到来から1150年が経過した。チェコとスロバキアでは7月5日はコンスタンティヌスとメトディオスの記念日となって毎年休日になるのだが、実はチェコでは住民の注意があまり引かれていない休日だと思う。スロバキアでは重要な記念日となって、様々な記念祭や文化イベントが行われているそうである。
ムハは兄弟のメッセージをスラブ民族の文言的・信仰的な統一の意味で表した。しかしたったその100年後の現代を観れば、実態の差は著しい。諸スラブ民族の統一のアイディアは過去のものとなって、代わりにヨーロッパ連合が様々な話題に立ち向かっている。自分の国の歴史と国家的の認識の意味がこれほど早く変わることに驚きを感じた。

4.ブルガリアのシメオン皇帝 1923年、405×480cm
Car bulharský Symenon
アナスタシア ジャルコーワ

4アナスタシアブルガリアの歴史人物の中からミュシャはブルガリアのシメオン皇帝を選んだ。10世紀シメオン皇帝の支配は、ブルガリア帝国のもっとも栄光に満ちた時代だったからだ。赤、青、金色などの色彩に富んだこの絵を見て、繁栄しているシメオン皇帝の支配を想像した。
ミュシャが注目したのは、シメオン皇帝の文化方面での活動だ。シメオン皇帝ビザンチンで教育を受けた人物で、彼の帝国はスラブ教育と文学の重要な中心地となった。大ペレイェスラフというシメオン王国の首都で、自分を生徒たちで囲んで、ビザンチンの文学をスラブ語に翻訳した。
画面の中で玉座に座り、赤と銀の衣服をきているシメオン皇帝は、作家、科学者、僧たちに囲まれている。シメオン皇帝は何かを書き取らせていて、ほかの知識人は文献を読んだり、スラブ語に訳したり、書き記したりする。古文の本や巻物などの文献がスラブ民族の過去と将来との結合を象徴していると思う。シメオン皇帝は、この絵の中心人物で、彼の権威や高潔さが感じられる。

この絵をみて、スラブとビザンチンの模様が両方混じっていて、面白いと思った。ミュシャが実際に取材旅行をして、東方のモチーフで感銘を受けて、ビサンチンとスラブの双方の装飾を使って、華やかなシメオンの宮殿を描いた。たとえば、絵の上部にはビサンチンのイコンが描かれている。ブルガリアで活躍していた司祭の肖像を描いたイコンである。その中にキリルとメフォディの弟子あって、ブルガリアに亡命したナウム、クレメント、アンゲラルの肖像も見られる。逆に、シメオン皇帝が座っているところの上のアーチはスラブ的な模様で装飾されている。

5.王プジェミスル・オタカル2世 1924年、405×480cm
Král Přemysl OtakarⅡ.
アネシカ フィアロヴァー

5アネシカスラブ叙事詩の5番目に描かれている王プジェミスル・オタカル2世という絵画は、有名なチェコの王を表している。プジェミスル家は10世紀にモラヴィア帝国が滅亡した後、ボヘミアで新しく現れ出た一家である。12世紀から14世紀までボヘミアはプジェミスル家によって統治されて、巨大な帝国になった。オタカルは1253年、父の死によりボヘミア王になって、帝国を築き続けた。ミュシャは王オタカルを姪の結婚式中に描いた。なぜかというと、中世に帝国を築くというのは、戦争を始める以外には、結婚政策を実施することだったからだ。その通りオタカルも姪の縁談を調えて、新しい領土を拡張できた。だからこの絵画はオタカルの栄光絶頂の時を見せている。絵画にはオタカル以外にほかのスラブの王が描かれている。しかし、それは歴史的には事実ではない。実は、ハンガリー王しか出席しなかった。ミュシャはスラブの民族が中世から統一されたということを表したかったから、歴史を変えた。

私はミュシャの作品は非常にきれいだと思うが、スラブ叙事詩を初めて見たときあまり好きにはなれなかった。なぜかというと、その絵画は全然誠実ではないという気がするからだ。誠実ではないので、人間の心を動かせない。もちろんスラブ叙事詩はほかのミュシャが描かれた作品と同じように、高い技法で、装飾を凝らしているし、観覧者に印象を与える。だが、残念ながらこの絵画が好きにはなれない。王プジェミスル・オタカル2世の絵画も私にそう思わせる。絵画を見ると真ん中に腕を差し伸びながら立っているオタカルの姿が見える。その周りに同じ立ち姿でほかのスラブ王も描かれている。この中心的な場面は絵画の残部と比べて、薄い色で強調されている。王様が腕を差し伸びながら立っている立ち姿はリアリティがなく私に不自然な印象を与えた。この場面はボヘミア王としてオタカルの栄光を表わそうとしていることがわかるが、立ち姿さえ信じられないと絵画の全部をまじめに受け取られないだろう。ミュシャは技術で歴史を変えてみたかったが、そのため彼の絵画が誠実ではなくなってしまったと感じている。スラブ叙事詩展覧会の小冊子を読むと、スラブ民族の栄光や有名なスラブ人に対しての敬意については理解できるが、本当にその気持ちを実感することはできない。ミュシャは偉大な画家ではないとは言いたくないが、技術が誠実でないとどんなに偉大な芸術家でも、いい絵を作ることができないと思う。

スラブ叙事詩 06~10

6. シュテパーン・ドゥシャン・セルビアのツァーを東ローマ帝国への即位式 1923年、405×480cm
Korunivace cara srbského Štěpána Dušana na cara východořímského
カトカ ローロヴァー
6カトカこの絵画は卵テンペラが使われ、1923年のイースター日曜日に完成された作品である。その寸法は405 x 480センチメートルである。絵画の主題になっているシュテパーン・ドゥシャンは偉大な大将であり、ビザンティウム帝国が倒れた後、1346年にセルビアとギリシャのツァーになった。即位式はスコピエにある聖マルコ聖堂で行われた。
ツァーと彼の随行員が絵の真ん中に描かれている。彼の前に若い女性と老いた男性の集団がいる。老いた男性は重要なツァーの刀と王冠を持ち歩いている。そして、民族服装を着た女性は花を持ち、木の枝を振っている。老いた男性の前に若い女性が前に置かれた理由は、若者のほうが良い未来の象徴だからだろう。
第2番目の絵画と比較すれば、この絵のほうが明るい。確かに、2番目の絵画に暗い出来事を予想したのと違い、こちらはスラブの明るい将来(歴史)を予測できるからだろう。絵画からは、勝利の雰囲気が強く漂っていると思う。この絵を見ると、もしかして戦に勝利した後ではないかと感じられる。それはミュシャがうまく私たちに歴史を感じさせようとしているように思われる。

明るさを伝えそうとする絵画がゆえに、色も明るいことにすぐ気づく。絵に命を吹き込むのは描かれた風である。この風によって旗や木の枝の葉などが堂々と翻っている。ツァー行列の構図はよくまとまっている。これ全部でなんだか祝典の雰囲気を感じることができる。スラブ叙事詩の中では、このような楽観的な構図は少し珍しいのではないかとも考えた。
次に、ツァードッシャンの姿はどうしてそんなに小さく描かれたのかという感想を持った。ツァーより、ずっと前にいる若い女子のほうが大きくて明るく見えるのである。ミュシャはそれで何を伝えたかったのか。将来は元首ではなく、若い世代に託されているからか。それについても議論の余地がある。違う解釈がある人はきっといるだろう。
気持ちの響きに関しては、この絵画と快く遊ぶことができた。そして、どのくらい見ても絵が発する息吹に飽きることがない。他の絵画も含めて、このスラブ歴史絵画サイクルを作ったミュシャは本当の芸術の天才と認めざるを得ない。彼のアールヌーヴォーの女優のポスターも、四季サイクルも、全部の作品が憧れがいがある作品である。

7. クロミエジーシュ市のヤン・ミリーチュ 1916年、620×405cm
Milíč z Kroměříže
マテイ・ヴルボウスキー

7マテイ14世紀後半のプラハに、「ヤン・ミリーチュ」という有名な説教者・禁欲主義者が活躍していたと言われています。ミリーチュはとても賢明で、キリスト教に関して本を幾つか書きましたが、実は有名になった理由はこれだけではなく、ある珍しい出来事に繋がっているのです。アルフォンス・ミュシャによって描かれた名作「スラブ叙事詩」の第7枚目、または「言葉の力」というトリプティックの第一枚目の「クロミエジーシュ市のヤン・ミリーチュ」はこの出来事を中心にしています。

まず、絵画の描いた場面と時期から始めましょう。前にも書いたとおり、ミリーチュは14世紀後半に活躍していたので、時期をその時に当てても良いでしょう。背景からすれば、場所は恐らく当時のプラハの旧市街と推測できます。絵画の登場人物は、足場の頂上に立っているヤン・ミリーチュと彼の説教を聴いている周りの女性たちです。次に、この絵が何を意味するのかについて書きたいと思います。序論にも書きましたが、ミリーチュはある出来事でチェコの歴史で目立つようになりました。それが何かといえば、なんと当時のプラハの悪名高い遊郭の売春宿を修道院にして、売春婦たちを改宗したと言われています。足場の上に立って説教するミリーチュのささやかで、乱れた青い服装、そして長いひげが禁欲主義者の強調と思っても良いでしょう。また、ミリーチュの説教を聴いている女性たちの白い、あるいは青い服装が、売春婦としての過去を跡にして、修道女として蘇ったという象徴が見えます。

ですが、女性たちは皆白か青い服を着ているのではありません。絵画をよく見れば、足場の下に、赤い服装の女性が一人います。「無罪」の白ではなく、「有罪」を象徴している赤い服なので、修道女に対して彼女が改宗していないと思われます。それから、悪口や噂話を言うかもしれないから、余計な話をさせないため、猿轡をはめられています。まとめれば、この絵には、聖なる人が人生に迷っていた女性を救うという、宗教に関するモチーフがあります。「言葉の力」で人が救えることが可能であるという考えが含まれているでしょう。

参考文章 http://www.muchafoundation.org/gallery/browse-works/object/218

8. タンネンベルクの戦いの後 1924年、405×610cm
Po bitvě u Grunwaldu
ヴィレーム フルーゼク

8ヴィレーム1410年7月15日に激しい戦いが起こった。ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍がドイツ騎士団を破った。このタンネンベルクの戦いはスラブ民族の大勝利になった。アルフォンス・ミュシャはスラブ叙事詩の一部を通して、この戦闘の後の情景を生き生きと描写した。
この1924年に描かれた壮大な絵のテーマとして北スラブの相互主義を選んだ。絵の真ん中に立っている人物はポーランド王ヴワディスワフ2世である。ヴワディスワフは丘の頂上に立ち、亡くなったドイツ騎士やスラブの兵士たちに哀悼の意を表している。大勝利なのにミュシャはヴワディスワフの手振りで残念な気持ちを伝えた。騎士の白いマントルが地面を覆っていて、スラブ側の戦士も戦った戦闘の記憶として残っている。これが絵の特徴である。チェコの傭兵たちもヴワディスワフの左後ろ側で戦場をじっと眺めている。皆は大変悲しそうに見える。この絵を長い時間を見ていると確かに戦争は本当に苦しいことだという印象を受けるだろう。

これからスラブ人としてこの絵を見た時、私がどんな気持ちを持ったかについて紹介したいと思う。私は初めてミュシャのスラブ叙事詩を見て、タンネンベルクの戦いの後の情景に深く感動させられた。絵の冷たい色が悲劇のような印象を与えている。この絵を見ると、戦いの恐ろしさについて考えざるを得ない。クリスチャンがクリスチャンを殺すのは本当に悲しいことであるから、勝利を収めなければならなかった。スラブ民族の大勝利は楽しいことではなかった。スラブ民族の最大の敵が破れられたのに、だれも勝利を祝わない。絵の色は冷たいうえに、右側の方がかなり暗いから、悲しい印象を増強する。人間のみならず、動物も勝利のために命を失った背景が戦争の恐ろしさを強調する。ミュシャの一番大事なメッセージは平和共存へのアピールだと思う。
苦しい場面に対して、スラブ人の相互愛が感じられる。一緒にポーランド軍のために亡くなった様々な戦士を見ると、相手を支えることが大事だという気持ちを持つようになった。ミュシャはこのような協同を忘れないようにこの絵を描いたと思う。本当にミュシャのスラブ叙事詩は、様々な面からスラブ人にとって大事な遺産であると思われる。

9. ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 1916年、610×810cm
Kázání Husovo v kapli Betlémské
フィリップ コテク

9フィリップヤン・フスはチェコ人の先覚者の神父であり、当時のカトリック教会における道義の頽廃を著しく批判して、宗教改革運動を進めました。ヤン・フスはカトリック教会の異端審問によって1415年に火刑に処せられたことでも知られています。ヤン・フスがカトリック教会はどのような道を歩むべきかと説教したのはベツレヘム礼拝堂に代表されるプラハの主要な教会でした。そこには教会改革を求める者が集まってヤン・フスの演説を聞きました。アルフォンス・ミュシャが描いた「スラブ叙事詩」の9枚目の絵画がまさにその場面を描写しています。「言葉の魔法」という三連祭壇画の真ん中にヤン・フスを収めることによって、チェコ人にとってヤン・フスがどれぐらい重要な人物であったのかを明らかに示します。

絵画が祭壇から展開して、ヤン・フスが台の上に立って、集まってきた観衆を見渡しています。アルフォンス・ミュシャはフスが1412年にベツレヘム礼拝堂において熱心な演説をするところを描写しました。教会での厳かな雰囲気は淡い色彩の使用によって強調されて、鮮やかな色がめったに見られません。それはミュシャが当時の乱れた世界の暗い社会的な色彩をその色づかいによって表したように思われます。当時のカトリック教会の道義、換言すると様々な罪を犯した人がそれを取り除くメカニズムが一般的に批判されて、多くの人が迫害され、戦争の脅迫もありました。ミュシャの絵を見たとき、その事情が表わされているのではないかと私は思いました。戦争の雲がチェコの国を覆うかのように、礼拝堂の天井が暗く描かれていて、望みを意味する灯台からの光が仄かで、消えそうな感じがします。
フスの説教を注意深く聴いている人たちの中で、絵画の最も暗い左の片隅に集っている神父たちが顔を伏せながら、反省しているような印象を与えます。その一方、教会改革を求めて、耳を傾いている庶民や必死に覚え書きをする学者たちからはもっと暖かい雰囲気が醸し出されています。社会的な頽廃はまだ救えることを意味していると想像してもいいでしょう。

最後に、この絵画のもっとも注目を引くところに集中したいです。右側に座っているジョフィエ皇后のお手伝いたちの中で一人が明らかに目立ちます。目立つのは顔です。それはミュシャの特徴の一つだと私が思います。スラブ叙事詩の約6枚の絵画では見ている人に瞳を凝らすかのような顔をする人物が描いています。この絵の女性の場合も同様です。

10. クジージュキの集会について 1916年、620×405cm
Schůzka na Křížkách
ヤロシュ イルカ

10ヤロシュ「クジージュキの集会」はスラブ叙事詩において、「言葉の魔術」というテーマで描かれた三枚の祭壇画の一枚である。1916年に作られ、テンペラ絵具と油絵具で描かれた。この画の幅は405センチであり、高さは620センチだ。
フス焚刑後、フス派の急進派がより活発になり、そのリーダーはヴァーツラフ・コランダとなった。急進派は教会が貧しくあるべきだという前提で、教会の中ではなく、屋外説教を行うようになった。この絵画には、このような宗教的な山での屋外集会が描かれている。正確に言うと、1419年9月30日、ベネショフ近郊のクジージュキで開かれた集会だ。ヴァーツラフ・コランダは説教壇を象徴している高いところに置かれた板に立ち、フス派信仰者に話しかけている。

この絵画を最初に見た時、まずとてつもない迫力に圧倒されました。これほどに大きい絵画を見たことがありませんでしたので、本当にびっくりしました。大きいから大雑把だと思ってしまう方がいるかもしれませんが、実はそうではありません。
近くに行って見ますと、それぞれの部分に何かがきめ細かく描いてあります。たとえば左下には、子供を担いでいる女の人に男の人が方向を指していることがわかります。焚き火のある場所を指し、あたかも「疲れただろう、そこで休んで温かいスープでも飲め」と言っているような感じです。その左上にコランダのたくましい姿が描かれています。素朴な羽衣のような衣服を着ており、集会所に来ているチェコ人たちにこれから何を言おうかと考えながら、下を見渡しています。この部分から、尊厳と真剣な緊張が生々しく伝わってきます。
絵の中心に明るい日差しがとどまり、ポジティブな雰囲気を放っています。また、この明るい部分が白い旗まで続き、新しい未来への方向を示す矢印であるかのように明朗な感じがしてきます。これに対比している暗い空が一番上の部分にあります。これから起こるフス信者たちの暴動の兆しだろうか。早朝の雲を稲妻が走っています。これは、これから来る国の嵐を象徴しているかもしれません。雲を背後にしている血の色の旗も悲観的なムードをかもし出しています。
暖色によって絵画全体からとても暖かい印象が残りました。また、前の部分から感じる緊張も会場の照明のおかげで、だんだん染められてくるような感じを引き起こします。この絵画はチェコで起ころうとしていた宗教的な革命の前兆を忠実に描いていると思います。

スラブ叙事詩 11~15

11.ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)1923年、405×480cm
Po bitvě na Vítkově
ヤナ バジュロヴァー
11ヤナこの絵画は1923年に制作された。1420年にフス戦争の初めにジギスムントはプラハを占拠した。ヤン・ジシカは農民の軍人たちとプラハを助けに来たが、フスの陸軍の力が足りなかったので、ヴィートコフ丘の上に防備を固めて、ジギスムントの兵士と戦った。その決定的な瞬間にプラハの人々が支援に来た。
絵の中央では聖体顕示台を持ったターボル派の僧が、祈っている人に囲まれている。右にはトロツノフ出のヤン・ジシカが立っていて、垂れ込める雲から太陽の光が出て、ジシカに浴びせている。それは勝利に必要な神の慈悲を表現している。

感情をこめた絵だが、私は無神論者であるから、ちょっと迷っている。なぜかというとその人たちの苦しみが分かるが、私にとって神にすがるのはもう望みがないという意味だからだ。神はどこにもいないで、彼らだけがいて、その戦いでは自分の力に頼るほかはない。左に座っている女の人の顔を見ていると、同じ考えではないかと思える。「もう多くの人が死んでしまって、戦争の終わりが見えなくて、君たちの神はどこだ?もううんざりしている。家族と穏やかな生活だけがほしい。」というような表情だ。
静かに見えるが、嵐の前の静けさという感じがする。ヤン・ジシカは祈っているが、彼の前に刀が立っているし、刀や盾などが一列に並べてある。祈りが終わった後、すぐに武器を手に入れて戦いが始まるのではないだろうかと思っている。この静かな雰囲気が一瞬のうちに血だらけの背景に変化する可能性がある。しかも上の右に濃い曇りか煙が上がっているせいで悪い予感がする。
ミュシャは光と影の遊びを上手に使えるが、同時に人がいる影は影にあまり似ていない。影というよりカメラが使うカラーフィルター効果のように見える。絵画を製作した後、追加してあるところに納戸色に染めたようだ。

私にとって、ミュシャの絵はもっとも技術的に最高レベルにあると考えている。ミュシャは様々な形で織られた衣類を描くのが上手である。特に、ここに光と影があるかのように立体画を描いている。しかし、ちょっと不自然に見える。他のミュシャの女性がよく出てくる想像的な絵画の服は大好きであるが、ヴィートコフ丘での戦いの後の絵は現実的な場面を描いているので、よく織られた服はちょっとおかしい気がする。

12. ペトル・ ヘルチツキー 1918年、405×610cm
Petr Chelčický
ヤン ハベルカ

12ヤンスラブ叙事詩の第十二番目の絵のテーマはチェコの宗教思想家ペトル・ ヘルチツキー(Petr Chelčický)です。 ヘルチツキーはフス戦争のときに活動して、ヤン・フスの後継者の一人でした。戦争の時代に生きていましたが、キリスト教に従って平和主義者でした。
ヘルチツキーの平和主義は絵からもうかがうことができます。絵の中のヘルチツキーは奥に燃えている町から逃げてきた戦争の被害者を慰めています。慰めるだけではなくヘルチツキーは「悪を悪で報うな」と言っています。どんな辛いことがあっても、世の中の悪を増やすのはだめだと言う意味です。
この戦争の悲劇を示して平和主義のメッセージを持っている絵を、スラブ叙事詩の第十一番目の絵と比べるのはとても興味深いです。前の絵のテーマもフス戦争でしたが、あの絵はフス派の勝利を示しています。戦闘で勝利したフス派兵士は神に感謝の祈りを捧げています。テーマはほぼ同じですが、意味はずっと違っています。

ミュシャが第十二番目の絵を描いたときに第一次世界大戦の一番激しい戦いがあったので、ミュシャはこの絵で戦争の栄光を示すことが出来なかったのです。戦争の被害者は神に感謝していません。ただ「救いたまえ」と祈っています。 ヘルチツキーは全部をなくしてただ命を守っていた被害者に希望を与えます。全部をなくしても神が彼らを見捨てていないと信じれば被害者が生き続けることが出来るからです。
叙事詩のすべての中でのこの絵の立場も面白いです。第十三番目の絵はスラブの最後の戦いの英雄の絵ですが、このヘルチツキーの絵は優れている文化を持つ民族としてのスラブの始まりを表しています。この絵の立場は歴史が近代と現代の狭間にあるあいまいなところです。確かにヘルチツキーは遠い歴史の人でしたが、フス派は近代のチェコ国民復活とミュシャの現代の象徴でした。ヘルチツキーをただの歴史上の人物だと思っているのではありません。

ヤン・フスの代わりにヘルチツキーが絵のテーマになった理由は象徴としてのヘルチツキーに繋がっています。フスは不正義の反抗の象徴ですけど、第十一番目の絵の無敵の大将のジシュカは反抗のもっといい象徴になっています。ヘルチツキーは反抗の象徴ではなくて、文化や思想の象徴です。戦いを示す絵の中でヘルチツキーの第十二番目の絵は未来への希望を象徴しています。
この絵について芸術的なことを全然書いていませんが、その理由は私には芸術が全然分からないです。文学を好んでいる私にはムハの芸術よりヘルチツキーやフス派の思想と歴史の方がずっと書きやすいからです。芸術の分からない私にはスラブ叙事詩が名作と言うことは分かっていますが、その理由や意味はあまり分かりません。

私が通っていた小学校はヘルチツキー小学校という名前でした。ジシュコフ町にはフス派の人々だけではなくて、色々なチェコの歴史の偉人の名前を持つ所が多いですが、やっぱり学校には思想家のヘルチツキーの名前が相応しいです。だから、私にはヘルチツキーの名前を聞くと、歴史やミュシャの絵ではなく小学校時代が思い出されます。スラブ叙事詩のヘルチツキーの絵も同じです。やっぱり、私には遠い歴史より自分の人生の方が近いようです。

13.ポデブラデイのイジー 1923年、405×610cm
Husitský král Jiří z Poděbrad
カテリーナ ソウドッコヴァー

13カテリーナスラブ叙事詩はアルフォンス・ミュシャによって描かれた20枚の大作です。アルフォンス・ミュシャは世界的に有名なチェコ人のアール・ヌーボーの画家です。ミュシャはパリに住んでいましたが、劇場のポスターを描いてから20年後、1910年に大好きなプラハに帰ってきました。若いころから夢の作を描いてみたかったからです。スラブ民族の歴史とナショナリズムを誉めるすばらしい大作品を作る夢でした。でもこんなに空想な作品を作るにはお金がかかりました。幸い金持ちのアメリカ人、チャールズ・クレインがスポンサーになり、ミュシャは夢の大作を描きはじめました。1912年から1926年まで油絵とジステンパー*の絵20枚を描いていて、やっとスラブ叙事詩という絵のセットが完成しました。

私は「ポデブラデイのイジー」という13番の絵を選びました。この絵は1923年に卵のジステンパーと油絵の具で画布に描かれました。絵の中には旧教徒及び新教徒を支配していて、15世紀に生きた最後のチェコ人の王ポデブラデイのイジーが描かれています。貴族から王に選ばれた後、当時の風習に従いローマへ行ってみましたが、新教徒だった理由でカトリックの法王に接見することを断わられました。国へ帰ってきた王は法王から出された伝令に話して、旧教に改宗することを断りました。そういう状態が13番の絵に描かれています。
絵を見ると珍しい構図にすぐに気付きました。絵は等しい部分に全然分かれていません。その上、重要な部分の大きさと明るさが分かれていなくて、そこには私がわからない画家の特別な意向があると思います。下の三分の一はとても暗くて、人が四人しかいません。重要な人がいる中心部は一番小さくて、また人が大勢いるせいで人々の顔が認めにくいです。そして一番大きくて、明るい上の分には人がいなくて、ゴシック様式の円蓋と凝った窓だけがあります。その上、王の姿は暗い右の角にいて、あまり見えなくて、絵の真ん中には注意を引いている法王の伝令がいます。そのような構図は本当にまれだと思います。
構図以外に、絵の明かりも特別だと思います。唯一の明かりの源は奥の窓だから、絵の大半はとても暗いです。

私はアルフォンス・ミュシャの作品が好きです。でもパリの時のポスターが大好きで、スラブ叙事詩は別の描き方で描かれているのでポスターほど好きじゃないです。しかしミュシャの作品ではスラブ叙事詩はすばらしい雰囲気があると思います。

*ジステンパーは絵を描くために使われている絵具の種類です。

14.シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛 1914年、610×810cm
Hájení Sigetu Mikulášem Zrinským
ヤナ バジュロヴァー

14ヤナ1566年にトルコ人はドナウ川沿いにスラブ各国を侵略し始めた。だが、シゲトというハンガリーの町で激しい抵抗に遭った。クロアチアの貴族ニコラ・ズリンスキは町の司令官であった。同等でない戦いは避けられない結果に近づくにつれて町の防衛者は最後の玉砕攻撃の用意をする。
絵の真ん中でニコラは熱気のこもったスピーチをして、町民を勇気つげた。町民はトルコ人は私たちを生きたまま捕らえられないと結束している。城はすでに燃えている。彼の奥様とシゲトの女の人たちは火薬工場の塔を攻撃した人に引き渡す代わりに、その中に走って火をつける。奴隷であることや捕らわれている者を除いて、自分の命を犠牲にする。そのような行動は爆発の瞬間と同時に戦闘の用意を表現している。そのため描画は煙で二つに分かれている。
その赤色は地獄のイメージを思い出させないだろうか。一目でどうしようもない状況のようにみえるが、目を凝らすと、わりに強い決意を感じる。あきらめて運命を受け入れる人には見えないのだ。誰も逃げないで、町を命懸けで守るつもりだ。その意味で素晴らしい光景だと思う。赤色は防衛者が出している活力、決断力、誠実を象徴している。夜空に上がっている煙は夜なのに寝る時間がなくて、今でも人々がすごく活動している証を見せている。結局、皆は死んでしまったが、英雄的な死のお陰でトルコ人の前進を減速させた。

上に書いたようなことがわかった後、これはにわかに活気づいている絵になってしまった。その情報がないと、大混乱の場面のようにしか見えない。なんというか、統一的なものがなくて、個々のシーンから組み立てられたようだ。そして、もう一つの感想がある。それは現実的な顔が見えないことである。どんなに服や武器が上手に描かれても、本当の目が見えないなら、その人のやり方や考え方に夢中になれない。
そして、色はちょっと地味であるが、それは多分時間がたつにつれて、薄くなってしまったのだろう。製作した直後、色はどのように見えたのかと考えている。
ところで、スラブ叙事詩なのに、その絵はスラブの歴史とあまり関係がないと思ってしまう。ニコラ・ズリンスキがクロアチア人であることとトルコ軍がスラブ世界に上進した時、シゲトを攻撃したということだけではスラブ叙事詩に入れる理由としては足りないという感じがする。

15.イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠 1914年、610×810cm
Bratrská škola v Ivančicích: kolébka Bible kralické
クリステイーナ・ヴォイティーシェコヴァー

15クリスティナ16世紀にウニタス・フラツルムというキリスト教派がモラビア地方、具体的にいえばアルフォンス・ミュシャの生まれ故郷イヴァンチツェに移動しました。そこでチェコ語初の聖書を出版しました。イヴァンチツェの辺りはクラリツェというので、その聖書も「クラリツェの聖書」といいます。最初のチェコ語で書いた聖書だからこそ、チェコ人のアイデンティティの象徴にもなりました。その作品にはジェロテイーン大名がイヴァンチツェへ聖書の出版を取り締まりに来ています。彼はウニタス・フラツルム教派の者に連れられて来て聖書の出版過程を見ています。ウニタス・フラツルム教派の者の中で年を取った盲人は少年の一人に聖書を読んでもらいます。その少年の顔からすればアルフォンス・ミュシャ自身かもしれません。教会塔を囲んで飛んでいる雨鳥たちはウニタス・フラツルム教派の未来を象徴しています。なぜかというと、雨鳥たちの群れは冬が近づくと南国へ飛び去る習慣があるからです。その南国は天気の快い場所だから雨鳥たちはチェコから飛び去ります。それと同様にウニタス・フラツルム教派の者もビーラーホラの戦い以降、外国に移動させられるという意味です。

最初に絵画を見たとき、スラブ民族の歴史を描く一連の作品の中で「イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠」は落ち着いた雰囲気という印象を持つ作品の一つだと思いました。しかし慎重に見れば、絵画のシーンは忌まわしい前触れに満ちているというような感想を持ちました。なぜかといえば、雨鳥たちの象徴の通りにビーラーホラの戦いとともにウニタス・フラツルム教派の者の亡命が迫って来ます。その上、絵で描かれた忌まわしい前触れは教会塔を囲んで飛んでいる雨鳥たちだけではなく、盲老人、左側から曇ってきている空のモチーフもあります。そのようなものは私の心に違和感を起こしています。私にとって「イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠」という絵画は驚かされる作品です。一見すると、絵のシーンは公園で午後遊んでいる光景に見えます。ところが、実は、詳しく調べてみると、重要な内容、あるいは重要な歴史的な背景が明確に見出せる作品です。

スラブ叙事詩 16~20

16. ヤン・アーモス・コメンスキー 1918年、405×620cm
Jan Amos Komenský
ルチエ ブラスコヴァー
16ルチエアルフォンス・ミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する画家であった。チェコ出身のアーティストなのに、パリで最も有名になった。ミュシャは 1900 年、パリ万博の頃からすでに叙事詩の構想を持っていた。それから家族とともに長きに及んだフランス滞在からチェコへ戻り、ズビロフ城で最初のキャンバスを描きはじめた。作品は 18 年にも渡って描かれた。 そして「スラブ叙事詩」と名付けられ、ミュシャはこの作品をチェコ民族に捧げた。現在、スラブ叙事詩はプラハのヴェレトルジュニー宮殿に展示されている。
スラブ叙事詩はミュシャにとって生涯の歴史画シリーズにあたる。大作 20点からなるスラブ叙事詩の中で、ミュシャにとってたぶん一番重要な作品はヤン・アーモス・コメンスキーであった。なぜならスラブ叙事詩の作品の中で署名されている絵はこれだけであり、ミュシャはコメンスキーに感心していたからである。コメンスキーはよく民族の教師と呼ばれている。しかし学校教育だけでなく、コメンスキーは 出産前の母親教育から 死と向き合うための高齢者の心の準備まで生涯にわたる教育全般を体系的に論じた。世界で最初の子どものための絵入り百科事典「世界図絵」や 「大教授法」 などの著書でも知られている。

絵は1918年に描かれ、寸法は縦405センチ、横620センチである。ミュシャはこの世界でコメンスキーの最後の瞬間を描いた。コメンスキーは亡命先のナールデン、オランダの海岸で祖国を思いながら終わりの時を迎えようとしている。灰色の海と空が孤独と孤立を強調している。たぶん夜に嵐が来そうだと考えている。左側にコメンスキーの近づいている死を悲しむ信奉者が立っている。特にひざまずいて泣いている女と悼みながら立っている男が注目を集めている。真ん中にある小さな提灯から来る炎は、より良い明日のスラブ祖国への希望を暗示している。右側に停泊中の船が遠くから不鮮明に見える。他には何もない。しかしこの虚しさそこが絵の魅力だと思う。
コメンスキーが写っている絵を最初に見たときから忘れられない。大変感動的な光景だと思う。長い時間この絵を見ているうちに涙を覚えた。なぜならコメンスキーの孤独と信奉者の悲しさがよく表れているからだ。
生涯を一貫するミュシャのメッセージは私たち皆が、全人類が親しくなるという希望を抱かねばならないということだと思う。自分がスラブ民族の一員であることを誇らしく感じるということも確かに伝わっている。やはり、スラブ叙事詩はミュシャのライフワークとして位置づけることができる。

17. 聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných) 1926年、405×480cm
シモン タマキ
17シモンギリシャの東北に3つの岬のあるハルキディキ半島があり、その東端に2033mのアトス山がそびえ立っている。ギリシャでは主に東方正教が広まっているが、アトス山はギリシャの正教会の重要な場所であって、正教会のヴァチカンとも言われる。独立した修道院共和国でもあるが、そこにいくつかの修道院が建てられ、アトス山はこれら修道院の一つで、 その教会は聖母マリアに捧げられた。

ミュシャは画を作り始める前に、1924年に実際に入山し、古い神聖な雰囲気に強い印象を受けた。画面では、聖母マリア教会の内部が描かれていて、その中心に聖母マリアのモザイクが描かれている。彼女はこの教会を訪れるすべての巡礼者を祝福している。ミュシャはこの画を最初の三つの画と同じように、画面を二つの層に分けている。一つは修道院を訪れる人々の姿の実際的な層で、もう一つはその上に浮かんでいるケルビムたちと天使たちの姿の象徴的な場面である。 モザイクの下で、正教の神父や修道僧が聖者たちの遺物を捧げもち、口づけするよう巡礼者たちにそれを差し出している。
陽光が右手から教会内に差し込み、その光の中でケルビムたちの姿が、上に登ってゆく。彼らが手にしているのは、この地域の他の主な修道院である。これら修道院の名前はキリル文字で記され、ケルビムたちの後には、これら修道院の4人の院長の姿が見える。

この画はスラブ叙事詩の中で他の画ほど大きくないが、その穏やかな神聖な雰囲気と外から中に差している日光が気に入った。構図もとてもうまくできていると思う。
ミュシャがアトス山の教会をこの絵に描いた理由は、またスラブ民族の宗教的な源とそこに基づくスラブ民族の統一を表すためだろうが、それらの背景が分からなくても、これらの展示を観る価値があると思う。

18. スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち: スラブ民族の目覚め 1926年、390×590cm
Přísaha omaladiny u slovanské lípy
テレザ ステイスカロヴァー
18テレザこの作品はヤーン・コラールというスロバキア人の叙情詩のソネット「Slávaの娘」に基づき、二つ重要な主題が描かれている。ソネットと同じように、この絵画でも菩提樹はスラブ人の木という意味があり、スラブィアはスラブ人の神になるものを表現している。ミュシャはこの絵で19世紀のスラブ人の共通目標とするスラブ国を作ることを描いている。スラブ菩提樹の下でスラブィアに青年たちが宣誓をしている。宣誓する青年たちは男性だけであり、絵の中にいる女性たちが宣誓をただ見ている。宣誓する青年たちの顔が描かれていないのでこの絵は未完成と言われる。その青年たちの宣誓が絵の中心になり、金色で強調されている。絵の前景に描かれている小さい塀に座っている少女がスラブ叙事詩展ポスターに使われた。ハーフを奏でる少女が音楽のアレゴリーを表現している。

スラブ叙事詩のパンフレットで「スラブ菩提樹の下で宣誓する青年たち」という小さい絵を見たとき面白いと思った。しかし、スラブ叙事詩展の際にその絵を見て、失望した。リアルな絵の色と雰囲気がそのパンフレットの小さい絵と違い、リアルな絵はあまり感動しなかった。絵の中心、青年たちの宣誓とスラブ菩提樹に座っているスラブィアを見て、どういう意味なの?と自分に問い直し、パンフレットなどに書かれていた趣旨だと思わなかった。大きい油絵なのに見る者に影響を与えていないと思った。

19. ロシアでの農奴制廃止 1914年、610×810cm
Zrušení nevolnictví na Rusi
アナスタシア ジャルコーワ
19アナスタシアこの絵は1861年に出された農奴解放令をもとにしている。19世紀半のロシアはヨーロッパより衰退していた。1856年のクリミア戦争における敗北によって近代化の必要性を痛感した皇帝アレクサンドル二世が、政治改革を行ってロシアにおける農奴制を廃止した。これにより地方の民衆はある程度の自由を得て、ロシアにおける新たな産業発展への道を拓いた。

この絵は、1913年にミュシャがロシアへ旅行の後で描いたものだ。本来は1861年の産業改革の称賛を提示しようとしていたが、作者はロシア民衆の情けない生活を見て、絵の気分と色彩を変更した。
この6×8メートルの大きい絵には、画面はモスクワの聖ワシリイ大聖堂とクレムリン前の赤の広場の寒い2月の朝を表している。右手では新しい法令を宣言した役人たちが帰り際で、黒い小斑点に見える。クレムリン前の赤の広場は市民や農民であふれている。人々は帰らずためらっていて、農奴制廃止が何をもたらすかをまだ理解できず、それは彼らの顔からもうかがえる。空には濃い霧が立ちこめているから、聖ワシリイ大聖堂はあまり見えなくて、外形だけ見える。逆に、聖ワシリイ大聖堂の前の人々は具体的に描写されている。それぞれの人の瞬間的な姿勢や表情は写真のように描かれている。例えば、前景にわらの上に座っていて、子供を胸に抱きしめている女の顔を見て、何を考えているだろうかとふと思った。たぶん農奴制廃止ということの意味あまり分からなく、自分の人生、子供、家庭について不安に考えている。この絵に描かれたロシア民衆の顔をそれぞれ熟視しながら、ミュシャはスラブ人であるロシア人の特徴をよく伝えたような気がした。すなわち、陰気、困難なときや不幸なときの忍耐強さとしっかりした精神などに代表的されると考えられるロシア人の精神である。
聖ワシリイ大聖堂の後景に、濃い霧が立ちこめている空に最初の陽光が見える。たぶん来るべき自由とより良い生活の希望の曙光の象徴かもしれない。

20. スラブ賛歌:4つの色で示されるスラブ民族の4つの時代 1926年、480×405cm
Apoteoza Slovanstvo pro lidstvo!
テレザ ステイスカロヴァー
20テレザ20番目の絵は「スラブ賛歌:4つの色で示されるスラブ民族の4つの時代」という絵である。1番目の絵と同じ年に描かれた絵である。スラブ叙事詩の最後一枚であり、全部のシリーズを要約する作品である。この絵はスラブ人の戦勝の様子を視覚的に描いている。ミュシャはスラブ民族の4つの時代を描くのに4色を使っている。絵の右下の青色はスラブ人の神話初期の時代を表現している。絵の左上の赤色はフス戦争の時代を描いている。絵の左真中にいるのはスラブ人の敵である。それで、黄色で描かれた姿はスラブ人の1918年の解放を表現する姿である。絵の中心となるのは印象的なスラブ人であり、伸ばした手で自由と調和の花輪を持っている。スラブ人の上昇に絵の後ろからイエスが祝福している。

一見したところ、「スラブ賛歌」という絵は私に感動を与えた。絵の中心に立っている印象的なスラブ人や、ミュシャが故意に色を使うところなどがすばらしい。しかし、もう一回か二回絵を見て、絵について少し考えみると、そんなに興味深い絵だと思わなくなった。ミュシャはこの絵にスラブ叙事詩の20枚を要約したかったと言われる。それは理解できるが、そんなに上手じゃない絵だという感じがする。

スラブ叙事詩を見終ったとき、チェコ人としてこの展覧会を見るべきだと思った。ミュシャは有名な画家で、チェコ人とスラブの歴史を自分の絵で描いているから。しかし、展覧会の印象はそんなに興味深い絵を見つけることはできなかった。ミュシャはスラブ叙事詩を描いたとき、チェコ人とスラブを誇りにしていた。その連作を見ると誇りのような感じが伝わってくるが、ミュシャの伝え方はあまり理解できない。それは、私が他の時代に生きているからではないだろうか。