私の街 広尾

カロリーナ・スルボヴァー

一番好きな街を選ぶとしたら、広尾と言う場所になる。その理由はいったい何であろうか。実は私はプラハ生まれだが、生まれて3ヶ月から5歳まで父の仕事で家族みんなで東京に引っ越しして、その5年の間広尾にあるチェコ大使館に住んでいた。なので、子供のときからの多くの思い出や経験、初めての幼稚園や友達などは広尾に強く関連している。そのような理由で、広尾は私にとって世界でどこにもない特別な場所だと感じている。

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広尾とその周辺は、「住んでみたい街」というような調査で何年間も連続でトップクラスにランクインされている。その人気がある理由と、広尾の特徴を述べよう。まずはその位置だ。上述したように、広尾は渋谷区に位置し、通っている路線は地下鉄日比谷線だけであるが、周囲の六本木、青山、麻布、恵比寿など、他の人気がある場所には歩いて10分ほどである。それに渋谷と新橋行きのバスが利用できるので、とても便利だ。

次の点はインターナショナルなイメージである。その理由の一つは、多くの国の大使館や豪邸があり、住んでいる外国人の数も多い。そして、そのイメージを象徴する雰囲気あるショップやレストランが建ち並んでいることや、ヨーロッパなどから輸入した商品を売っているナショナルマーケットがあることだ。その上、チェコ大使館の近くにカレル大学の学生も毎年留学できる有名な聖心女子大学や他のいろいろなインターナショナルスクールなどがある。


広尾駅の隣には、有栖川宮記念公園があり、その中には、都立中央図書館もある。広尾とその周辺にはチェコ大使館のほかに、ドイツ、ペルー、フランス、コンゴなどの大使館がある。

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日本のチェコ大使館にあるチェコセンターは、チェコの文化を広報したり、チェコと関係のあるイベント、例えば映画上映、コンサート、展覧会などを行っている。しかし、広尾にある、チェコと関係のある建物は大使館を除くと一つだけだ。それは日本に3店しかないチェコ料理店の一つ『ホスポダ アノプロシーム』と言うお店である。メニューにはチェコの伝統的な料理、例えばグラーシュ、ブランボラーキ、スヴィーチュコヴァーなどがあり、お酒に関しては、色々な種類のビールが飲めるが、チェコ人からすると、少し値段が高いように感じられる。200コルナほどするピルスナーなどはやはり海外ならではの高い値段設定である。

以上のことをまとめると、広尾の特徴は特に静かな住宅街ということである。多くの人が住みたいと思う、理想的な住宅街だが、一つデメリットを挙げるなら非常に家賃が高いということだろう。

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どうやって古いボヘミアのお金はドルになりましたか

トマーシュ・ゲツコ

古くはヨーロッパのお金は、銀と金から作られていました。中世や近世にヨーロッパ大陸でお金が主に銀から作られました. 「銀本位制」と呼ばれて、現代まで使われました。現代に入って「銀本位制」は「金本位制」に変わりました。

ドイツで使われていた銀貨は「Thaler通貨」と呼ばれました。そしてアメリカの通貨「ドル」の名前はその「Thaler銀貨」から来ています。面白いのはその「Thaler銀貨」は古いボヘミアのお金でした。

中世のボヘミア王国にはたくさん銀の鉱山がありました。たとえば1300年ごろのボヘミアの「Groš銀貨」がヨーロッパで評価されました。そのためボヘミア王国はとても有名でした。ヨーロッパの政治で強い地位を持つようになりました。豊かなボヘミアの王様はカレル四世の時代(1346年から年1378まで)から神聖ローマ帝国の皇帝でした。

そして1520年にボヘミアのJoachimsthalという町で新しい銀のお金が作られました。ヨーロッパでは「Joachimsthal銀貨」と呼ばれました。1528年に「Joachimsthal銀貨」はボヘミア国家のお金になりました。その名前を短くして「Thal銀貨」になりました。Joachimsthalは、今日のチェコのJáchymovという町です。Karlovy Varyの近くです。

image001Jáchymov 

また「Joachimsthal」の名前は面白い意味があります。十六世紀のボヘミア王国には、たくさんのドイツ人が住んでいて、Joachimsthalはドイツ語で「Joachimの谷」です。今もドイツ語で「Tal」は谷です。「Thal銀貨」を翻訳すると「谷の銀貨」ですから。

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古いボヘミアの「Thal銀貨」

すぐに新しい「Thal銀貨」はとても有名になりました。十六世紀から「Thaler」はドイツで銀貨の同義語でした。でもボヘミアに住んでいるチェコ人は「Thal」で買うとき「Thaler」の言葉を使いませんでした。代わりにチェコ人はそのお金を「Tolar」と呼んでいました。「Thaler」と「Tolar」の音は面白くて覚えやすいから、その名前がたくさん使われました。十六世紀の後半にすべてヨーロッパの銀貨は「Thaler銀貨・Tolar銀貨」と呼ばれました。たとえばスロベニアのお金は2007年まで「スロベニアのTolar」でした。でもドイツ語の「Thaler」はドルのためにもっと重要でした。

オランダ人も「Thaler銀貨」を使いましたが名前がちょっと変わりました。ドイツ語の「Thaler」は「Daalder」に変わりました。十七世紀に北米の植民地でお金が必要でした。イギリスは北米へのお金の輸出を禁止して、オランダ人は「Daalder」を輸出しました。

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オランダDaadler銀貨

北米に住んでいるイギリス人によって、そのお金は「Dollar」と呼ばれました。1775年から1783年までアメリカ独立戦争がありました。十三の植民地が勝って新しいお金が必要でした。「Dollar」はとても人気のあるお金でしたから、1795年に銀の「Dollar」が作られました。日本語でドルです。今は世界で約四十か国がドルを使っています。

 

チェコでの日本文化のイベント

イロナ・ドウツコヴァー

プラハや他のチェコの町で行われている日本文化の行事は、一年中枚挙に暇がないので、誰もが自分の気に入った日本文化のイベントを選択できます。また日本文化に興味を持っている人だけではなく、日本のことがあまりわからない人もイベントのプログラムを楽しむことができます。毎年チェコ人は裏千家の茶道、生花、書道、日本映画、アニメと漫画、日本の美術、劇場の狂言、日本料理を作ることなど関するイベントに参加できて、日本文化の知識を広めるようになります。

インターネットで「japan.cz」と言うチェコ・日本友好協会のウェブサイトや他の様々なページで日本文化行事の情報を見つけることができ、よく読まれている新聞・雑誌、見やすいところにあるポスターの報告からもいろいろわかります
。その上、「manga.cz」・「akihabara.cz」・「otakuland.cz」というインターネットコミュニティで集まっている特別な日本文化の分野のファン達も行事の詳しい情報をシェアしています。

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チェコでの日本文化の行事は多くありますが、今回は アニメ・日本映画のイベントを紹介したいと思います。

日本映画と言えば、多くの西洋人は黒澤明・三池崇史・宮崎駿のジブリの映画しか連想しません。なぜなら、一般に小さい西洋諸国にはアジア映画があまり輸入されていなくて、ヨーロッパ人はお店で発売されている数少ないDVDになった映画と映画館で上映された映画しかわからないからです。普通、チェコ人は映画館で世界中で人気になった日本映画しか見ることができせんから、一般の映画館では毎年2本以上の日本映画が上映されることはほとんどありません。映画館で日本映画を見たいなら、日本映画祭がいい機会です。

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日本映画祭とは、毎年1月にプラハで開催されている日本映画の祭りです。それは2008年に第一回が開催され、プラハのLucernaという美しい映画館でアニメだけではなく、実写から狂言・音楽のパフォーマンスまで見られます。

イベントのハイライトとしては2012年の映画祭の人形劇・尺八、太鼓、琴の演奏・東北地方太平洋沖地震後の写真の展覧会は大変印象的でした。

次の年、参加者は書道・着物・折り紙・生花のワークショップに参加できて、狂言のパーフォマンスが楽しめました。

今までの日本映画祭では「ALWAYS 三丁目の夕日」、「ええじゃないか 」、「花火」など(チェコ語に翻訳した字幕が付いている)の日本映画が見られました。このイベントの目的は新しい日本映画を発表することではなく、目立っていて、面白いと思われている日本映画を紹介することです。

次の2014年の映画祭は「忍び」、「日本のオリンピック」、「市川崑の映画監督」が主なテーマになっています。詳しい情報が「eigasai.cz」というページに告知されます。約450席の規模の小さい映画館なので、前もって切符を買う必要があり、映画を三つ以上見ようと思っている人はイベントの特別なチケットパスが購入できます。

チェコ人の日本語学習者に「どうして日本語を勉強し始めたか」と聞くと、大勢の人々は日本アニメが好きになって、それから少しずつ日本への興味が深まったとよく答えます。そのため、一番有名なアニメの祭りも紹介したいと思います。それはアニメフェストです。

アニメフェストとは、2004年からブルノで5月に行われているアニメ・日本文化の祭りです。参加者はアニメや講演からワークショップやコスプレコンテストを含んでいる3日連続プログラムと特別な展示会やサービスが楽しめます。プログラムは3-5分にわかれ、来場者の数が上がってきているせいか、昔利用されていたブルノの大きい映画館とイベントビルから、2012年にEXPOのような「Brněnské Výstaviště」という建物に移動しました。


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この表を見ると、2004年から毎年来場者の数が上昇しているということがわかります。2004年に初めて催されたアニメフェストへの参加者は約200人でしたが、8年後の、2012年には、10倍になり、2000人もの人がアニメフェトに参加しました。これは、2000年以降チェコで日本の大衆文化が段々人気になりつつあり、日本の事に興味を持っている人の数も上がっているからです。

アニメファン達はAkicon(11月の秋コン)、ADVik(8月のアニメダンス週間)など他のイベントに参加できます。アニメフェストと違って、プラハで開催されている秋コンは講演・コンテスト・ワークショップが中心になっています。また、「アニメダンス週間」のプログラムはアニメ以外にもPCゲームやサイエンスフィクションが含まれています。

ヤン・シュヴァンクマイエル、代表的な超現実主義的の映画監督

トンダ・スラチック

日本の友達とチェコの映画について話すと、大好きな映画監督がたくさんでてきます。たとえば、カレル・ゼマン(Karel Zeman)、 イジー・トルンカ(Jiří Trnka)、オルドリッチ・リプスキー(Oldřich Lipský)などの監督をよく知っています。 しかし、シュヴァンクマイエルと言うと、友達の意見は半分に別れます。半分はシュヴァンクマイエルを愛していますが、他の半分は彼のことが心から嫌いです。それほど物議を醸すチェコの映画監督は他にいないかもしれません。シュヴァンクマイエルの作品をまだよくご存じではなかったら、ここで少しだけ紹介させていただきたいとおもいます。この記事を読まれた後で、彼のことが大好きな半分になっていただけたらと思います。

ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer、 1934年9月4日 – )はプラハのVŠUP(応用美術大学 )とAMU(舞台芸術アカデミー)を卒業しました。AMUで操り人形を勉強していたおかげで、大学の後で、Black Theathre (黒い劇場) で働きました。Black Theatre のしばらく後でプラハのLaterna Magika という有名な劇場で働き始めました。そこで最初に映画と出会いました。人生が変わった瞬間でした。

映画と出会って、「黒い劇場」から操り人形の経験豊富な監督として1964年に最初の短編映画ができました。「エドガルさんとシュワルツウルドさんの最後の手品」(Poslední trik pana Schwarcewalldea a pana Edgara)という操り人形のストップモーション・アニメーションでした。しかし人形の代わりに俳優は人間でした。エドガルさんとシュワルツウルドさんはマジシャンとして、舞台でどちらがもっと上手か競争します。あいにく二人は意欲に燃えすぎて、映画の終わりに舞台を全部破壊します。

http://www.youtube.com/watch?v=tlVwcOzbAZk

「エドガルさんとシュワルツウルドさんの最後の手品」(Poslední trik pana Schwarcewalldea a pana Edgara)

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「エドガルさんとシュワルツウルドさんの最後の手品」(Poslední trik pana Schwarcewalldea a pana Edgara)

この映画の「競合の対話」というテーマはシュヴァンクマイエルの個人的なスタイルの基礎を築きました。特に1982年に作った「対話の可能性」(Možnosti Dialogu)という映画でこのスタイルが見られます。「対話の可能性」は三つの章に分かれています。最初の「事実対話」(Dialog věcný)という章ではジュゼッペ・アルチンボルドの野菜や果物のような顔が対話します。対話が進むにつれて、だんだんもっと高精細な顔になります。

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「事実対話」(Dialog věcný)

次の部分、「情熱的な対話」(Vášnivý dialog)には、粘土でつくられた、愛しあっている顔が見られます。しばらく愛しあった後で、喧嘩し始めます。

「情熱的な対話」(Vášnivý dialog)

最後の部分、「徹底的な対話」(Dialog vyčerpávající)、には粘土作りのお年寄りの顔が対話しています。言葉の代わりに口から色々なものを出します。歯ブラシに反対論として歯磨き粉が出るということのたとえです。

「徹底的な対話」(Dialog vyčerpávající)

「対話の可能性」は三つの映画賞を受賞しました。アヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリをとり、ベルリン国際映画祭に金熊賞と「 C.I.C.A.E」という特別賞を受賞しました。その上に、「対話の可能性」はテリー・ギリアム(Terry Gilliam)の世界の一番素晴らしい動画のリストに選ばれました。

賞を受賞するシュヴァンクマイエル

http://www.youtube.com/watch?v=SqGAZgtDiBU

「対話の可能」(Možnosti Dialogu)

世界の影響

シュヴァンクマイエルは有名になって、世界の色々な監督は彼から強い影響を受けています。これらの監督の映画の個人的なスタイルには、シュヴァンクマイエルの影響が見られます。影響をうけたと告白した監督のスタイルを少し比べてみましょう。たとえば

ティム・バートン (Tim Burton)

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ブラザーズ・クエイ (Borthers Quay)The quay brothers svankmajer influence.jpg

テリー・ギリアム (Terry Gilliam)Terry Gilliam Svankmajer influence.jpg

シェイン・エックル

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影響をうけた人はたくさんいるのでまだ続けられますが、シュヴァンクマイエルの話に戻りましょう。

シュヴァンクマイエルは、自分が監督した映画だけではなく、特殊効果でも有名になりました。チェコの「アデーラ・イェシュテ・ネベチェジェラ」(Adéla ještě nevečeřela)と「タイェムストヴィー・フラヅ・ウ・カルパテック」(Tajemství hradu v karpatech)で特殊効果を担当しました。「ナーヴシュチェヴニーツィ」(Návštěvníci)ていうテレビシーリーズのたとえも、すぐに有名になった「アマロウニ」(Amarouny)という特殊効果を生み出しました。「アマロウニ」とは未来から来た訪問者の特別なインスタント食品です。

「アマロウニ」(Amarouny)

映画に話を戻すと最近の映画も注目に値すると思います。

長編映画のリスト

Něco z Alenky (1988)

http://www.youtube.com/watch?v=bosvfUoO0DU

Lekce Faust (1994)

http://www.youtube.com/watch?v=1d-h02LlaqI

Spiklenci slasti (1996)

http://www.youtube.com/watch?v=d-b67wO8oCs

Otesánek (2000)

http://www.youtube.com/watch?v=qylAR_TnQrw

Šílení (2005)

http://www.youtube.com/watch?v=NBCxUvBai7U

Přežít svůj život (2010)

http://www.youtube.com/watch?v=XDXhBLHXKmA

結論として、シュヴァンクマイエルは超現実主義的な映画の草分けで、色々な他の現代の有名な監督たちは彼から強い影響をうけました。映画の超現実主義における著名な監督として、これからも影響を与え続けると思います。特に2015年に公開予定の「フミズ」(Hmyz)のおかげで、影響はさらに強くなるかもしれません。「フミズ」とはチャペック兄弟の「ゼ・ジヴォタ・フミズ」(Ze života hmyzu)のドラマをもとにした長編映画です。そんな個性的なシュヴァンクマイエルのビジュアル表現の方法が、「チャペック」の永遠に素晴らしいアイデアと合わさると、偉大な映画になることは間違いないと言えるでしょう。ですから2015年の公開を首をながくして待っています。

さて、この記事を読むまえにシュヴァンクマイエルをしらなかった方々、今どう感じていますか。今、どちらの半分に属しているでしょうか。

(私はロボライオンに参加しています。

チェコの高校の卒業式

マルケータ・ネドヴェドヴァー

チェコでは、高校の卒業式は非常に重要な社交イベントです。

高校生たちは、卒業年度になると、卒業式のために準備を始めます。高校といえば、主にギムナジウムや専門学校です。卒業式は通常十二月から三月までの間に行われます。一般的に卒業式が始まる時間は午後7時ぐらいからです。夜中まで続いて、それから二次会に行きます。


招待券
 招待券は「意図的にスペルミスがあります

 卒業式に何を着たらいいのでしょうか。どんな人であろうと、晴れ着を着たいものです。卒業生の女性はドレス、男性はタキシードを着用したほうがいいです。それに女子生徒にはお祝いの髪型が人気があって、すなわちシニヨンが好まれます。観客はセミフォーマルな服装が適当でしょう。例えば女性は短いカクテルドレスを着るのが正しい選択だと思います。

プログラムの最初にオープニングダンスが含まれています。ダンスといっても、普通複雑なダンスを何度も練習しなければならないし、クラスで一緒にテーマを決めるのは難しいものです。

http://youtu.be/t6HyIFrvFzI

私のクラスのオープニングダンスは「グリースのテーマ」です。 

卒業生は、クラスの先生から卒業式のたすきや花を受ける習慣があります。たすきにはクラスのモットーが印刷されていて、モットーの内容やたすきの色はクラスで一緒に決定します。

卒業式の進行を司る人は司会者です。さらに幾つかのライブバンドがいろいろな音楽スタイルの楽曲を演奏します。

 たすきを受けます

卒業生は、クラスの先生から卒業式のたすきを受けます。

写真の背景にいる女の人は卒業式の司会者です。

 学級委員もしばらく演壇に立って、スピーチをします。クラスの先生に感謝の言葉を述べて、後で贈り物を差し上げます。

 贈り物

生徒はクラスの先生に贈り物を差し上げました。

 ある習慣は地域によって違います。例えばプラハでは、大きな布を持つのは伝統的なことです。すべての同級生は一緒にこの嵩張ったカンバス布を握り締めて、そしてここに観客がプレゼントとしてお金を投げて、その後生徒は落ちた残金を箒で掃きます。だがこれはお祝いというわけではありません。卒業式の費用全部を賄えるように、卒業式の前に生徒は発起人を募集します。

残金を箒で掃きます

観客は卒業生にお金をカンバス布へ投げて、後で生徒は落ちた残金を箒で掃きます。

 またある高校の卒業式では、一年生の入学式もします。しかしそれはあまり頻繁ではありません。

卒業式で、踊りたいと思う卒業生は、先生や、そして両親と社交ダンスを踊る部分があります。後で卒業生が一緒にダンスもしています。それはとても楽しいと思います。

チェコのお茶文化

カテリナ・シピロホヴァー

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昔のチェコの人たちは、ハーブを取って、ハーブティーを飲んでいたものです。ハーブティーを飲んだ理由は、まず薬として、また、チェコの冬はとても寒かったからです。中国、日本、そしてインドからのお茶は19世紀にチェコへ来ました。1848年にお茶について話し始めました。その年はプラハに暴動がありました。チェコ人は、オストワルトの将軍ヴィンディシュグレーツと戦いました。カレル橋のバリケードで大きい男の人は反逆者にお茶をあげました。ミハエル・バクーニン、無政府主義者でした。

お茶はチェコで早くから人気になっていました。イギリスの習慣のように、チェコ人はお茶を5時に飲み始めました。オットー百科事典でお茶のビスケットを見ることができます。

薬局では18世紀にお茶が売られていたそうです。ある記録によると、Rytířskáに住んでいた薬局の人は中国からお茶を輸入したそうです。彼は繻子の箱にいれてお茶を売ったそうです。

1908年にプラハのVýstavištěの展覧会で初めての喫茶店を開きました。Hlouchovi 兄弟は喫茶店をつくりました。Hlouchovi 兄弟は日本がとても好きでした。Hlouchovi の喫茶店にVáclav Havelが来ました。Václav HavelはLucerna の建築家でした。Lucernaはプラハで一番有名な公民館です。たくさんのパーティやコンサートが行われています。Václav Havel はHlouchoviに「この喫茶店はとても面白くて、きれいで、便利です。わたしは展覧会が終わったら、Hlouchoviの喫茶店をLucernaにうつしたいです」と言っていました。Hlouchovi兄弟は喜んで、喫茶店をLucernaに開きました。その喫茶店の名前は「横浜」でした。日本女性と中国女性がそこで働きました。お客様はお茶とコーヒーとお酒とビールを飲むことができました。

最近のチェコ人は、いろいろなお茶から好きなものを選べます。現在お茶の店はチェコ中にあります。インスタントティー、ティーバッグのお茶、茶葉です。中国、日本、インド、スリランカから来ています。たくさんのお茶がチェコで売られていますが、チェコ人はおいしくないけれど、ティーバッグの紅茶が一番好きです。その理由は、チェコ人が病気の時や寒い時お茶を飲みます。それとチェコ人はお茶に蜂蜜やレモンを入れます。たとえば私の友達はお茶にキウイのジュースをいれます。おいしいかもしれませんが、お茶の味ではありません。

 

(私はロボライオンに参加しています。)

最初の映画館

アデーラ・ギブロヴァー

「ポンレポ」という現代の映画館

NFA: archivní promítací sí PONREPO

プラハの「Karlova ulice」にいは、ヴィクトル・ポンレポ(Viktor Ponrepo)にちなんだ映画館がある。しかし、この映画館ではたいてい他の映画館で見えるような最新の映画は上映されていない。ポンレポの映画館の非凡さは、面白い古い映画を上映していることだ。時々日本の映画も見ることができる。長い歴史がある映画館の建物は、とてもいい雰囲気だし、切符も安いし、お年寄りと学生の切符の値段はさらに安い。ここに映画を見に行くのはいい経験だと思うので、ぜひお勧めする。

ヴィクトル・ポンレポ (Viktor Ponrepo)

ヴィクトル・ポンレポ

ヴィクトル・ポンレポは、本名ヂスマス・フェルヂナンヅ・シラボル、1858年6月6日にプラハで生まれた。彼は最初のチェコスロヴァキアの映画館を作り、チェコの映画撮影術の草分けだと言われている。

ヴィクトル・ポンレポは高校生の時、家風のとおりに金細工職人の修業をしていたが、高校を卒業したあとで、魔術師になった。魔術師の試験はハインリフ・グツワルヅ(Heinrich Gutwald)ですることができた。

役所から認可を取って、そのあと色々な町や村里へ旅して、自分の手品を披露して、すぐに人気がでた。しかし、彼は自分の名前が魔術師としては悪いと思っていたので、新しい名前を作ることにした。


「Bon Repos」という好きな城にちなんで「Ponrepo」の名前を選んだ。彼の移動劇場の名前も変わっていた。「ポンレポのマジックと幽霊やお化けが出る劇場」という劇場だった。

ポンレポは1891年に行われていた展覧会で紹介されていたエジソンの蓄音機を見てから、その機械を使いはじめた。数年後、ポンレポの競争相手ヤン・クジ一ジェネツキ一(Jan Kříženecký)が映写機を買ったので、ポンレポは映写機に興味を持つようになった。

映写機

ポンレポは間もなく魔術師として手品を披露することをやめた。代わりに、自分の移動の映画館を作った。プラハでは、当時、映画館を営むことが承認されていなかったから、また国中を旅した。

成功した映画は、例えばアフリカのブ一ルの戦争に関するドキュメンタリーや「Souboj paniček amerických」という映画などだった。

1901年に彼は数日間でプラハのKrálovské Vinohradyでのフィルム映写の認可を取った。2年あとにHolešoviceでも人々に映画を見せることができた。それに、1907年に9月15日にはチェコスロヴァキアの最初の映画館を開いた。これこそが、現代でもKarlova uliceに残るポンレポという映画館である。

その時に新しくできた映画館は56の座席があって、金曜日を除いて毎日上映していた。ポンレポの弟は観客に映画を紹介して、上映の途中で筋書きの説明をしていた。音声には蓄音機が使われていた。後で、ピアニストとバイオリニストが雇われた。ポンレポは観客を迎え入れていた。しかし、観客が次第に増えていて、全員を迎え入れることは無理になったので、ポンレポは短い映画を作った。その映画はポンレポが全部の観客を迎え入れることが出来た。

1908年ごろ、批評家は映画が人々に悪い影響を与えると思っていた。子供は映画を見られないし、検閲があるし、映画に興味を持っている人々は少なくなった。その状況に対して、ポンレポは映写の装備の店と映画レンタル店を作った。あいにく、成功しなかった。

1912年にポンレポは映画館の経営者のクラブの会長になった。しかし、第一次世界大戦のためにほとんどの経営者は自分の映画館を閉めた。

戦争が終わって、映画はまた人気が出てきたが、20年代に他の経済恐慌が来た。その時には、ポンレポは自分の映画館を売って、もう一同魔術師になろうとした。残念なことに、社会が変わっていたので、魔術師としてお金を稼ぐのは大変なことだった。1926年12月6日にヴィクトル・ポンレポは貧困の中で亡くなった。

 

(私はロボライオンに参加しています。)