チェコの面白いお城

アナ・ファイクソヴァー

チェコの歴史の代表的な建物のタイプといえば、すぐお城をイメージします。堅固な城でも、古い廃墟でも、立派なシャトーでも、チェコではあちこちにお城があります。この記事では、その大きい数の中から五つを選んで、紹介します。五つだけを選ぶのはちょっと残念ですが、全部の面白いお城について書いたら、この話は少し長すぎるでしょう。

この五つの城は私の好きな城です。トップファイブではなく、順番は私の今の気分によって決めました。

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でもまず、お城とシャトーとの違いを説明した方がいいと思います。「お城」という建物の重要な機能は防御です。たいてい、丘の上に建てられています。「シャトー」は主に貴族の屋敷です。ほとんどのシャトーは町に建てられていて、広い庭、または公園があります。それにシャトーはお城より新しい建物です。

さて、この五つの中で最初にご紹介するのはPernštejn「ぺルンシテイン」です。このモラヴィアにある大きい城はプラハから190キロぐらい離れています。

Pernštejnの最も面白いことはその古そうな外観です。Pernštejnにいって、その狭い廊下を歩いたり、古い木材のにおいをかぐと、いつも過去に落ちた感じがします。

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OLYMPUS DIGITAL CAMERAより

二番目はRabí「ラビー」です。南ボヘミアのSušice 「スシツェ」という町の近くにあります。プラハから約150キロです。

Rabíはボヘミアの一番広いお城の廃墟です。14世紀に丘の上に建てられましたが、18世紀に火事で焼失しました。今はもう堅固なお城ではありませんが、遺跡でも、その姿の昔の丈夫さがはっきりみえます。

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次は、プラハから100キロ離れたŽleby 「ジュレビ」という美しいシャトーの話です。

昔のチェコの貴族はたいていみんなドイツ人でした。1946年のベネシュ布告によって、過半数の貴族たちのシャトーは政府に没収されました。でもそのまえに、貴族たちは急いで、ドイツに引っ越しし、シャトーの家具、芸術作品などを持っていきました。そのせいで、たくさんのチェコのお城はちょっと空っぽです。但し、Žlebyは別です。

Žlebyの最も面白いところはその内部です。このシャトーの部屋のなかには家具や飾りが本当に豊かです。そしてそれに、シャトーの周りに静かな公園があります。疲れているなら、そこで休むのは気持ちいいです。

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最後に、二つの面白いお城、シャトーを比べてみます。その二つはČervená Lhota「チェルヴェナー・ルホタ」とHouska「ホウスカ」です。両方は小さくて、ルネッサンス風の建物です。

Červená Lhotaはプラハから南にあって、水に囲まれた、おとぎ話っぽいシャトーです。色々なおとぎ話の映画はここで撮影されました、たとえば、チェコで有名なZlatovláska、(日本語で「金髪のお姫様」)もその一つです。

その一方、Houskaはプラハの北にあり、森に囲まれた、ホラーっぽいお城です。どうしてホラーっぽいのでしょうか。

城のチャペルの下は地獄の入り口だといわれています。その上、Houskaでは、様々な超常現象が起こるそうです。たとえば、城に入ったら、頭が痛くなるとか、チャペルの写真がぼやけてみえるとか、そんなものです。私がHouskaを訪ねたときは、幸いに何も起こりませんでした。ただ、中庭にピンク色の大きな脳が展示されていました。本当に変わっているでしょう。

もし、チェコに旅行しに来たら、この五つ以外でもぜひチェコのお城を見に行ってください。

Říčany

アダム・ノヘイル

Říčanyはプラハに近い人口約1万5千人の街だ。最近、こういう街はよくŘíčanyも含めて「衛星都市」と呼ばれている。だが、実際の衛星都市と違って、Říčanyは自分の歴史と雰囲気がある。

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13世紀にOndřej ze Všechromという貴族がŘíčanyのお城を建てて、おそらく街も建設した。それでその家族は「z Říčan」と呼ばれてきた。その「pánové z Říčan」というŘíčanyの貴族のおかげで、Říčanyは栄えている街になってきた。しかし15世紀にフス派の戦争の時代の間にŘíčanyのお城が火事にあった。その後、お城の周りに住んでいる人はお城の石を使って自分の家を建てた。このようにお城の壁が段々なくなっていた。現在、お城の丘には壁が二つしか残っていないものの、街中の近くて、美しい平和なところである。三十年戦争の間に街は破壊されて、その後再建された。

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現在のŘíčanyにとって大切な時代は第1次と第2次世界大戦の間の時代であった。そのとき、街はもう一度栄えて、家と建物がたくさん建てられた。特に多くの裕福な家族がŘíčanyにすてきな別荘を建てた。この伝統は続き、第2次世界大戦の後も、プラハより静かなところに住みたい人はよくŘíčanyを選んだ。今でも、他のプラハの周りの街と比べてきれいな庭のある家が多くて、高層ビルがほとんどない。

私はプラハで生まれたが、祖父と祖母はŘíčanyに住んでいて、私は小さい子供の頃からŘíčanyに行っていた。その時、友達と外で遊んだり、夏に自転車に乗ったり、冬にそりに乗ったりして、すばらしい学校の休みだった。祖母と祖父と一緒に庭で働くことも好きになった。そういうことは子供がプラハでできない。いい子供の時の思い出だけという訳ではない。今Říčanyに住んでいる理由は同じようだ。街のどこへも自転車で行くことができるし、きれいな自然も近くにあるし、静かで美しい街なことだ。映画館、屋内プール、商店街、たくさんのレストランなどもあることだ。更に、プラハの中心まで電車で27分しかかからない。

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Josef Ladaというチェコの有名な画家はŘíčanskoの周りのきれいな景色と絵のような村からインスピレーションを得たので、この地方は「ラダの地方」と呼ばれている。ハイキング道もサイクルルートも多いので、Říčanyからラダの地方にいい小旅行に行くことができる。それでにぎやかなプラハにいったら、気分転換にぜひŘíčanyにも行ってみて下さい!

大体の発音

Říčany                              ジーチャニ

Ondřej ze Všechrom        オンジェイ・ゼ・フシェフロム

私の街 Litoměřice

マリエ・ヌンハルドゥトヴァー

私はLitoměřiceを紹介したいと思います。私がこの町を好きな理由は、そこのギムナジウムに行ったこと、それにそこに三年間住んでいたことです。

Litoměřiceは、ボヘミア地方北部、エルベ川とOhře川の合流地点に位置しています。人口はおよそ24000人だから、あまり大きくないと思います。町の周囲にたくさんぶどう園があって、昔から有名なワインの産地です。特にŽernoseckéというワインは人気があります。

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町の近くにČeské středohoříという山脈もあります。ハイキングが好きな人に推薦できる場所です。


Litoměřiceはチェコで最も古い町の一つです。この地域は、石器時代から人々が居住していました。町の成立の前にここにプシェミスル朝の城が立っていました。1225年ごろに国王の町の地位を得ました。中世を通じてLitoměřiceは神聖ローマ帝国の重要な取引場所でした。白山(ビーラー・ホラ)の戦いの後, 多くの人は彼らの宗教のために町を離れることを強制されました。その結果としてチェコの住民は減って、ドイツの住民は大多数になりました。

第二次世界大戦の間Litoměřiceは第三帝国の一部でした。町には捕虜の強制収容所がありました。ここの捕虜は近くの丘の中にあった秘密の工場で働くことを強制されました。工場の名前はRichardでした。今はRichardの一部は放射性廃棄物処分場として使われています。図6

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Litoměřiceにたくさん観光スポットがあります。たとえばゴシックの城とかバロックの大聖堂とか、「猫」という岩とかKalichという展望台です。

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でも最も面白いのは、カレル・ハイネック・マーハの部屋だと思います。カレル・ハイネック・マーハ (1810-1836)は 、チェコのロマン派詩人の中で一番有名な詩人でした。マーハは1836年にLitoměřiceへ引っ越して、法律事務所で働いていました。ある日Litoměřiceで大きい火事が起きました。マーハは火事を消すのを手伝いました。でも彼は火事を消すのに用いられた水を飲んで、コレラで亡くなりました。マーハはLitoměřiceの墓地に葬られました。でも1938年にマーハの遺体はプラハのVyšehradの墓地へ移されました。

Litoměřiceにはたくさん面白い観光スポットがあるので、良い旅行先だと思います。

私の街 広尾

カロリーナ・スルボヴァー

一番好きな街を選ぶとしたら、広尾と言う場所になる。その理由はいったい何であろうか。実は私はプラハ生まれだが、生まれて3ヶ月から5歳まで父の仕事で家族みんなで東京に引っ越しして、その5年の間広尾にあるチェコ大使館に住んでいた。なので、子供のときからの多くの思い出や経験、初めての幼稚園や友達などは広尾に強く関連している。そのような理由で、広尾は私にとって世界でどこにもない特別な場所だと感じている。

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広尾とその周辺は、「住んでみたい街」というような調査で何年間も連続でトップクラスにランクインされている。その人気がある理由と、広尾の特徴を述べよう。まずはその位置だ。上述したように、広尾は渋谷区に位置し、通っている路線は地下鉄日比谷線だけであるが、周囲の六本木、青山、麻布、恵比寿など、他の人気がある場所には歩いて10分ほどである。それに渋谷と新橋行きのバスが利用できるので、とても便利だ。

次の点はインターナショナルなイメージである。その理由の一つは、多くの国の大使館や豪邸があり、住んでいる外国人の数も多い。そして、そのイメージを象徴する雰囲気あるショップやレストランが建ち並んでいることや、ヨーロッパなどから輸入した商品を売っているナショナルマーケットがあることだ。その上、チェコ大使館の近くにカレル大学の学生も毎年留学できる有名な聖心女子大学や他のいろいろなインターナショナルスクールなどがある。


広尾駅の隣には、有栖川宮記念公園があり、その中には、都立中央図書館もある。広尾とその周辺にはチェコ大使館のほかに、ドイツ、ペルー、フランス、コンゴなどの大使館がある。

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日本のチェコ大使館にあるチェコセンターは、チェコの文化を広報したり、チェコと関係のあるイベント、例えば映画上映、コンサート、展覧会などを行っている。しかし、広尾にある、チェコと関係のある建物は大使館を除くと一つだけだ。それは日本に3店しかないチェコ料理店の一つ『ホスポダ アノプロシーム』と言うお店である。メニューにはチェコの伝統的な料理、例えばグラーシュ、ブランボラーキ、スヴィーチュコヴァーなどがあり、お酒に関しては、色々な種類のビールが飲めるが、チェコ人からすると、少し値段が高いように感じられる。200コルナほどするピルスナーなどはやはり海外ならではの高い値段設定である。

以上のことをまとめると、広尾の特徴は特に静かな住宅街ということである。多くの人が住みたいと思う、理想的な住宅街だが、一つデメリットを挙げるなら非常に家賃が高いということだろう。

カレル・ハシュレル(Karel Hašler)

サーラ・ヤネチコヴァー

karel hašlerカレル・ハシュレルは、チェコのシンガー・ソングライター、役者、作曲家、作家、脚本家、劇作家、監督などでしたが、先ず第一に熱心な愛国者でした。

ハシュレルは1879年にプラハのガラスメーカーの家族に生まれました。 最初は父親に手袋を作るための訓練を受けさせられましたが、本当は演技や演劇に興味があったそうです。青春時代に素人の役者として演技を始めました。そして1903年にプラハにある国民劇場の役者になりました。しかし、ある日公演に遅刻してしまってから、すぐ首にされたそうです。

1909年のクリスマスに、最初のハシュレルによるプラハの歌の小冊子が出ました。その小冊子には「Po starých zámeckých schodech」という歌が入っていて、この歌はすぐに大人気になりました。

ハシュレルは1920年までに9冊の歌詞の小冊子を作りました。

ハシュレルの歌は古いプラハの魔力を持っていて、そのいくつかはどんどんチェコ人に人気を得ました。

1910年にはハシュレルはヴァーツラフ広場にある新しくできたキャバレーの演劇に出始めました。そこでいろいろな歌を歌ったり、演技をしたりしながら、自分の歌を作り続けました。

1918年に第一共和国が生まれた後、ハシュレルは新しい共和国の熱心な支持者になって、いろいろな政治的な歌も作りました。それは例えば「Kampak na nás, bolševíci」というボリシェヴィキに反対する歌です。

1932年に「Písničkář」という映画が作られました。その映画はハシュレルやハシュレルの作品を象徴しています。この映画で、ハシュレルは「パベル・ハラ」の役を演じます。ハラはオーストリア帝国の参事官ですが、実際にはチェコの愛国者です。夜になると、オーストリア帝国に反対する内容の歌を歌っています。
その映画の為に「Česká písnička」という歌が作られました。その歌はすぐ有名になって、ナチスドイツによる占領の時代、国歌と同じように重要になってきました。しかし残念ながら、この歌は最終的にハシュレルが死んだ理由になってしまいました。

ナチスドイツによる占領は、チェコ人にとって、とても苦しい時代でした。しかし、ハシュレルはドイツ人を恐れていなかったので、いろいろなドイツ人やゲシュタポを愚弄している歌を作りました。その愚弄の為に「Česká písnička」の歌詞も変えてしまいました。

1941年9月2日にハシュレルはゲシュタポによってマウトハウゼン強制収容所へ送られました。そこでカレル・ハシュレルは12月22日に親衛隊のメンバーに殺されました。

私たちチェコ人は、みんなに愛されたハシュレル、天才のハシュレル、勇敢な愛国者のハシュレルのことを決して忘れません。

 

(私はロボライオンに参加しています。)

チェコのクリスマスの習慣

クリシュトフ・コホウト

 クリスマスは、チェコで1年で一番大切なお祭りとして考えられているもので、家族が一緒にいるべきお祝いだ。キリスト教では、イエス・キリストが生まれたといわれている25日は大切だが、チェコの伝統によると、12月24日のクリスマス・イヴ、チェコ語でŠtědrý den (シュテドリー・デン)がクリスマスの中心になっており、多くの面白い習慣につながっている。

その習慣は占いに関したものが多い。クリスマスはちょうど1年の終わりごろで、この1年の出来事を反省したり、来年がどうなるかということを予想したりするには良い時期だからだ。

クリスマスの占いの方法がたくさんあるが、代表として、2つを紹介しよう。1つ目は、りんごの占いだ。りんごを真ん中で切り、種のあたりの形を見て予想する。星の形だと、来年は健康で過ごせるという意味で、十字の形だと、病気になったり死んだりする恐れがあると言われている。

クルミの殻の占い

2つ目は、クルミの殻の占いだ。家族のみんなはクルミの殻に小さいろうそく入れて小船を作る。小船は後でボウルに注いだ水の水面におき、その動きを見る。遠くまで行くと、来年は旅行したりすると言う意味で、みんなの小船は群れたら、家族は来年もずっと一緒にいられるということになる。

チェコのクリスマスのプレゼント文化はアメリカやイギリスのとかなり異なる。第一に、プレゼントをあけるのは、25日の朝ではなく、24日の夜ご飯を食べ終わってからだ。したがって、チェコの子供たちはもっと早くプレゼントを楽しめる。

第二に、プレゼントをあげると言われている者はサンタ・クロースではなく、Ježíšek(イェジーシェク)、つまり赤ちゃんのイエスだ。サンタが代表的な赤い服や白い髭で知られていたら、Ježíšekはもっと抽象的で、みんながシェアしているイメージがない。テレビのニュースでも、幼稚園の子供たちに、Ježíšekはどういう人なのかとインタビューしたら、それぞれの答えは全く違う。

また、面白いのは、Ježíšekの強さだ。小さい赤ちゃんだが、60年代にソ連によってJežíšekの代わりとして紹介されたDěda Mráz(ジェダ・ムラーズ、「冬のおじいさん」)にも負けず、現代アメリカの文化の影響で侵略しようとしているサンタにも勝った。その強さはちょうど、Ježíšekの抽象的さに基づいているだろう。

旧市街広場のクリスマスツリー

チェコには、西洋の国々と同じように、クリスマスツリーを飾る習慣があるが、この習慣は比較的に新しく、19世紀にできたそうだ。もっと古いクリスマスの飾りは、ヤドリギの葉っぱやBetlémといわれるものだ。 Betlémは、ベツレヘムでのイエス・キリスト降誕の情景を再現している小さい像や彫刻だ。多くの町のクリスマスマーケットには、等身大のBetlémがあったり、役者が演技していたり、本物の動物もいるBetlémも見られる。

ピルゼンの広場のBetlém

Betlémの演技

Betlém

それに、逆に非常に新しいベツレヘムに関する習慣がもう一つある。それは、ベツレヘムの光と呼ばれている。1986年から毎年、ベツレヘムのキリストが生まれた場所で永遠に燃えている聖火から火がともされ、ボーイスカウトによってヨーロッパやアメリカの諸国に運ばれている。聖火は多くの町まで運ばれ、誰でもがろうそくを使って聖火を家に持ってくることができる。そうすると、家庭にもベツレヘムと同じ炎が燃えるようになる。現代の道具や飛行機なしでは実現できないイベントだが、もともとのクリスマスの伝統につながっているので、とても素敵だと思われる。

私は子供のとき、クリスマスといえば、プレゼントを一番楽しみにしていたが、大人になるにつれて、プレゼントより独特なチェコのクリスマス習慣や雰囲気をエンジョイするようになった。モダンな世界の中で、母国の文化は守るべきだと思われるから。