スラブ叙事詩 11~15

11.ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)1923年、405×480cm
Po bitvě na Vítkově
ヤナ バジュロヴァー
11ヤナこの絵画は1923年に制作された。1420年にフス戦争の初めにジギスムントはプラハを占拠した。ヤン・ジシカは農民の軍人たちとプラハを助けに来たが、フスの陸軍の力が足りなかったので、ヴィートコフ丘の上に防備を固めて、ジギスムントの兵士と戦った。その決定的な瞬間にプラハの人々が支援に来た。
絵の中央では聖体顕示台を持ったターボル派の僧が、祈っている人に囲まれている。右にはトロツノフ出のヤン・ジシカが立っていて、垂れ込める雲から太陽の光が出て、ジシカに浴びせている。それは勝利に必要な神の慈悲を表現している。

感情をこめた絵だが、私は無神論者であるから、ちょっと迷っている。なぜかというとその人たちの苦しみが分かるが、私にとって神にすがるのはもう望みがないという意味だからだ。神はどこにもいないで、彼らだけがいて、その戦いでは自分の力に頼るほかはない。左に座っている女の人の顔を見ていると、同じ考えではないかと思える。「もう多くの人が死んでしまって、戦争の終わりが見えなくて、君たちの神はどこだ?もううんざりしている。家族と穏やかな生活だけがほしい。」というような表情だ。
静かに見えるが、嵐の前の静けさという感じがする。ヤン・ジシカは祈っているが、彼の前に刀が立っているし、刀や盾などが一列に並べてある。祈りが終わった後、すぐに武器を手に入れて戦いが始まるのではないだろうかと思っている。この静かな雰囲気が一瞬のうちに血だらけの背景に変化する可能性がある。しかも上の右に濃い曇りか煙が上がっているせいで悪い予感がする。
ミュシャは光と影の遊びを上手に使えるが、同時に人がいる影は影にあまり似ていない。影というよりカメラが使うカラーフィルター効果のように見える。絵画を製作した後、追加してあるところに納戸色に染めたようだ。

私にとって、ミュシャの絵はもっとも技術的に最高レベルにあると考えている。ミュシャは様々な形で織られた衣類を描くのが上手である。特に、ここに光と影があるかのように立体画を描いている。しかし、ちょっと不自然に見える。他のミュシャの女性がよく出てくる想像的な絵画の服は大好きであるが、ヴィートコフ丘での戦いの後の絵は現実的な場面を描いているので、よく織られた服はちょっとおかしい気がする。

12. ペトル・ ヘルチツキー 1918年、405×610cm
Petr Chelčický
ヤン ハベルカ

12ヤンスラブ叙事詩の第十二番目の絵のテーマはチェコの宗教思想家ペトル・ ヘルチツキー(Petr Chelčický)です。 ヘルチツキーはフス戦争のときに活動して、ヤン・フスの後継者の一人でした。戦争の時代に生きていましたが、キリスト教に従って平和主義者でした。
ヘルチツキーの平和主義は絵からもうかがうことができます。絵の中のヘルチツキーは奥に燃えている町から逃げてきた戦争の被害者を慰めています。慰めるだけではなくヘルチツキーは「悪を悪で報うな」と言っています。どんな辛いことがあっても、世の中の悪を増やすのはだめだと言う意味です。
この戦争の悲劇を示して平和主義のメッセージを持っている絵を、スラブ叙事詩の第十一番目の絵と比べるのはとても興味深いです。前の絵のテーマもフス戦争でしたが、あの絵はフス派の勝利を示しています。戦闘で勝利したフス派兵士は神に感謝の祈りを捧げています。テーマはほぼ同じですが、意味はずっと違っています。

ミュシャが第十二番目の絵を描いたときに第一次世界大戦の一番激しい戦いがあったので、ミュシャはこの絵で戦争の栄光を示すことが出来なかったのです。戦争の被害者は神に感謝していません。ただ「救いたまえ」と祈っています。 ヘルチツキーは全部をなくしてただ命を守っていた被害者に希望を与えます。全部をなくしても神が彼らを見捨てていないと信じれば被害者が生き続けることが出来るからです。
叙事詩のすべての中でのこの絵の立場も面白いです。第十三番目の絵はスラブの最後の戦いの英雄の絵ですが、このヘルチツキーの絵は優れている文化を持つ民族としてのスラブの始まりを表しています。この絵の立場は歴史が近代と現代の狭間にあるあいまいなところです。確かにヘルチツキーは遠い歴史の人でしたが、フス派は近代のチェコ国民復活とミュシャの現代の象徴でした。ヘルチツキーをただの歴史上の人物だと思っているのではありません。

ヤン・フスの代わりにヘルチツキーが絵のテーマになった理由は象徴としてのヘルチツキーに繋がっています。フスは不正義の反抗の象徴ですけど、第十一番目の絵の無敵の大将のジシュカは反抗のもっといい象徴になっています。ヘルチツキーは反抗の象徴ではなくて、文化や思想の象徴です。戦いを示す絵の中でヘルチツキーの第十二番目の絵は未来への希望を象徴しています。
この絵について芸術的なことを全然書いていませんが、その理由は私には芸術が全然分からないです。文学を好んでいる私にはムハの芸術よりヘルチツキーやフス派の思想と歴史の方がずっと書きやすいからです。芸術の分からない私にはスラブ叙事詩が名作と言うことは分かっていますが、その理由や意味はあまり分かりません。

私が通っていた小学校はヘルチツキー小学校という名前でした。ジシュコフ町にはフス派の人々だけではなくて、色々なチェコの歴史の偉人の名前を持つ所が多いですが、やっぱり学校には思想家のヘルチツキーの名前が相応しいです。だから、私にはヘルチツキーの名前を聞くと、歴史やミュシャの絵ではなく小学校時代が思い出されます。スラブ叙事詩のヘルチツキーの絵も同じです。やっぱり、私には遠い歴史より自分の人生の方が近いようです。

13.ポデブラデイのイジー 1923年、405×610cm
Husitský král Jiří z Poděbrad
カテリーナ ソウドッコヴァー

13カテリーナスラブ叙事詩はアルフォンス・ミュシャによって描かれた20枚の大作です。アルフォンス・ミュシャは世界的に有名なチェコ人のアール・ヌーボーの画家です。ミュシャはパリに住んでいましたが、劇場のポスターを描いてから20年後、1910年に大好きなプラハに帰ってきました。若いころから夢の作を描いてみたかったからです。スラブ民族の歴史とナショナリズムを誉めるすばらしい大作品を作る夢でした。でもこんなに空想な作品を作るにはお金がかかりました。幸い金持ちのアメリカ人、チャールズ・クレインがスポンサーになり、ミュシャは夢の大作を描きはじめました。1912年から1926年まで油絵とジステンパー*の絵20枚を描いていて、やっとスラブ叙事詩という絵のセットが完成しました。

私は「ポデブラデイのイジー」という13番の絵を選びました。この絵は1923年に卵のジステンパーと油絵の具で画布に描かれました。絵の中には旧教徒及び新教徒を支配していて、15世紀に生きた最後のチェコ人の王ポデブラデイのイジーが描かれています。貴族から王に選ばれた後、当時の風習に従いローマへ行ってみましたが、新教徒だった理由でカトリックの法王に接見することを断わられました。国へ帰ってきた王は法王から出された伝令に話して、旧教に改宗することを断りました。そういう状態が13番の絵に描かれています。
絵を見ると珍しい構図にすぐに気付きました。絵は等しい部分に全然分かれていません。その上、重要な部分の大きさと明るさが分かれていなくて、そこには私がわからない画家の特別な意向があると思います。下の三分の一はとても暗くて、人が四人しかいません。重要な人がいる中心部は一番小さくて、また人が大勢いるせいで人々の顔が認めにくいです。そして一番大きくて、明るい上の分には人がいなくて、ゴシック様式の円蓋と凝った窓だけがあります。その上、王の姿は暗い右の角にいて、あまり見えなくて、絵の真ん中には注意を引いている法王の伝令がいます。そのような構図は本当にまれだと思います。
構図以外に、絵の明かりも特別だと思います。唯一の明かりの源は奥の窓だから、絵の大半はとても暗いです。

私はアルフォンス・ミュシャの作品が好きです。でもパリの時のポスターが大好きで、スラブ叙事詩は別の描き方で描かれているのでポスターほど好きじゃないです。しかしミュシャの作品ではスラブ叙事詩はすばらしい雰囲気があると思います。

*ジステンパーは絵を描くために使われている絵具の種類です。

14.シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛 1914年、610×810cm
Hájení Sigetu Mikulášem Zrinským
ヤナ バジュロヴァー

14ヤナ1566年にトルコ人はドナウ川沿いにスラブ各国を侵略し始めた。だが、シゲトというハンガリーの町で激しい抵抗に遭った。クロアチアの貴族ニコラ・ズリンスキは町の司令官であった。同等でない戦いは避けられない結果に近づくにつれて町の防衛者は最後の玉砕攻撃の用意をする。
絵の真ん中でニコラは熱気のこもったスピーチをして、町民を勇気つげた。町民はトルコ人は私たちを生きたまま捕らえられないと結束している。城はすでに燃えている。彼の奥様とシゲトの女の人たちは火薬工場の塔を攻撃した人に引き渡す代わりに、その中に走って火をつける。奴隷であることや捕らわれている者を除いて、自分の命を犠牲にする。そのような行動は爆発の瞬間と同時に戦闘の用意を表現している。そのため描画は煙で二つに分かれている。
その赤色は地獄のイメージを思い出させないだろうか。一目でどうしようもない状況のようにみえるが、目を凝らすと、わりに強い決意を感じる。あきらめて運命を受け入れる人には見えないのだ。誰も逃げないで、町を命懸けで守るつもりだ。その意味で素晴らしい光景だと思う。赤色は防衛者が出している活力、決断力、誠実を象徴している。夜空に上がっている煙は夜なのに寝る時間がなくて、今でも人々がすごく活動している証を見せている。結局、皆は死んでしまったが、英雄的な死のお陰でトルコ人の前進を減速させた。

上に書いたようなことがわかった後、これはにわかに活気づいている絵になってしまった。その情報がないと、大混乱の場面のようにしか見えない。なんというか、統一的なものがなくて、個々のシーンから組み立てられたようだ。そして、もう一つの感想がある。それは現実的な顔が見えないことである。どんなに服や武器が上手に描かれても、本当の目が見えないなら、その人のやり方や考え方に夢中になれない。
そして、色はちょっと地味であるが、それは多分時間がたつにつれて、薄くなってしまったのだろう。製作した直後、色はどのように見えたのかと考えている。
ところで、スラブ叙事詩なのに、その絵はスラブの歴史とあまり関係がないと思ってしまう。ニコラ・ズリンスキがクロアチア人であることとトルコ軍がスラブ世界に上進した時、シゲトを攻撃したということだけではスラブ叙事詩に入れる理由としては足りないという感じがする。

15.イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠 1914年、610×810cm
Bratrská škola v Ivančicích: kolébka Bible kralické
クリステイーナ・ヴォイティーシェコヴァー

15クリスティナ16世紀にウニタス・フラツルムというキリスト教派がモラビア地方、具体的にいえばアルフォンス・ミュシャの生まれ故郷イヴァンチツェに移動しました。そこでチェコ語初の聖書を出版しました。イヴァンチツェの辺りはクラリツェというので、その聖書も「クラリツェの聖書」といいます。最初のチェコ語で書いた聖書だからこそ、チェコ人のアイデンティティの象徴にもなりました。その作品にはジェロテイーン大名がイヴァンチツェへ聖書の出版を取り締まりに来ています。彼はウニタス・フラツルム教派の者に連れられて来て聖書の出版過程を見ています。ウニタス・フラツルム教派の者の中で年を取った盲人は少年の一人に聖書を読んでもらいます。その少年の顔からすればアルフォンス・ミュシャ自身かもしれません。教会塔を囲んで飛んでいる雨鳥たちはウニタス・フラツルム教派の未来を象徴しています。なぜかというと、雨鳥たちの群れは冬が近づくと南国へ飛び去る習慣があるからです。その南国は天気の快い場所だから雨鳥たちはチェコから飛び去ります。それと同様にウニタス・フラツルム教派の者もビーラーホラの戦い以降、外国に移動させられるという意味です。

最初に絵画を見たとき、スラブ民族の歴史を描く一連の作品の中で「イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠」は落ち着いた雰囲気という印象を持つ作品の一つだと思いました。しかし慎重に見れば、絵画のシーンは忌まわしい前触れに満ちているというような感想を持ちました。なぜかといえば、雨鳥たちの象徴の通りにビーラーホラの戦いとともにウニタス・フラツルム教派の者の亡命が迫って来ます。その上、絵で描かれた忌まわしい前触れは教会塔を囲んで飛んでいる雨鳥たちだけではなく、盲老人、左側から曇ってきている空のモチーフもあります。そのようなものは私の心に違和感を起こしています。私にとって「イヴァンチツェにおけるウニタス・フラツルム教派の学校:クラリツェの聖書の揺り籠」という絵画は驚かされる作品です。一見すると、絵のシーンは公園で午後遊んでいる光景に見えます。ところが、実は、詳しく調べてみると、重要な内容、あるいは重要な歴史的な背景が明確に見出せる作品です。