ジシュコフ共和国

ジシュコフ(プラハ3区)はプラハの中心の東方面に2kmに位置している。公共交通手段が多く、さまざまなトラムやバス、地下鉄A線など多くの公共交通手段も通っており、非常に便利である。

ジシュコフの歴史といえば, 1875年にまだ「クラーロフスケー・ヴィノフラディ」という村として初めて地方自治体を確立したことに始まる。二年間でクラーロフスケー・ヴィノフラディの辺りが著しく広がり、二つの部分に分かれてしまった。新しい部分は有名な軍隊の隊長の名前をとって「ジシュコフ」と名づけられた。独立した街になったのは1881年である。第一次世界大戦の後1922年、他の37の自治体に合併され、大きなプラハの一つの部分になった。現代のジシュコフは古く伝統的な労働者向けの家と近代のモダンな建物が混在し、ボエームな地区とよく呼ばれている。

最初の観光スポットはジシュコフテレビ塔{1}である。プラハの建築で最も高く、塔としてはチェコ全体で最も高く、216mの高さで、プラハのシンボルになった。1970年代に建設計画が始まって、実際の施工は1990年からだった。塔には3つのデッキがあり、レストランやバーや観測所だけでなく、シングルルームのホテルまで備えている。塔を見上げたら、すぐ気づくのは有名な赤ちゃんの象である。チェコのアーティストのダビット・チェルニーによって作られた。始めに十人の赤ちゃんがアメリカのシカゴとイギリスのロンドンで公開され、2020年からジシュコフに設置され、テレビ塔を登っている。もちろん、テレビ塔は皆に好まれただけでなく、昔から論争の的となっていたこともある。

プラハの中心であったのにもかかわらず、17世紀の終わりに、新しいユダヤ人の墓地が作られた。なぜかというと、当時疫病が発生し多くの人が亡くなったため、墓場が足りなかったからだ。その上ヨセフ2世が町内の埋葬を法律で禁止された。19世紀が終るまでに約三万八千人がそこで埋葬された。残念ながら社会主義時代の政治が宗教を尊敬せず、公園とテレビ塔を作る予定のせいで、墓地の三分の二以上をつぶしてしまった。現代、墓地の最も古い部分しか残っていない。

15分でアクロポリス宮殿{3}と電話と電信の交換の本館{4}を通り、ロッフの教会 {5}に着ける。バロックスタイルで再建され、ジシュコフの最も古い教会である。丸い形なのにロトンダではない!昔のぶどう園の所で建てられた疫病に関するクリスト教の教会である。次の観光スポットはオルシャニの墓地{5}になる。プラハで最も広く、50ヘクタールで広げている墓地である。カフカの作家などチェコの有名人を含め、約200万人が埋葬された場所である。

1kmぐらい歩いて行き、ジシュコフの第二目のシンボルのヴィートクフという坂を登る。ヴィートコフ国民記念館{6}があり、きれいな景色がみえ、二つの歴史的なマイルストーンに関する場所だ。最初は軍隊の主任のヤン・ジシュカが1420年に戦った所として有名になり、そして二番目はチェコ国民の20世紀に関する歴史ミュージアムがある場所である。その上、遠くからも見ることができるのは、1950年に作られ、ヨーロッパで一番大きなヤン・ジシュカの騎馬像である。

帰り道は坂を下り、途中から古いジシュコフの特徴なバルコニーがある建物{7}を見、最後のスポットに向かう。次はチェコの有名な様々な能力がある架空の天才ヤーラ・ツィムルマンの劇場{8}である。最近は外国人向けに英語で演じている劇に人気がある。

ヤーラ・ツィムルマン劇場

どうしてジシュコフへ?プラハの中心から近いし、パリのモンマルトルのようにピトレスクなのにも関わらず、大勢の外国のお客さんが見落としている市区である。お客さんの興味に応じてカスタマイズまでできる。宗教に興味を持っている人なら伝統的なユダヤ人のお風呂に入れ、工芸学が好きな人はテレビ塔が登れ、歴史を熱心に学んでいる人にもおすすめだと思う。

地図のリンク(本文の番号に地図の番号が対応しています):https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1xMJ-rYwaFkbnyUnHhCJxoibpH59I6s25&usp=sharing

プラハっ子のプラハを知ろう!

どの国の人でも、恐らく皆は人生を急いだことがあるでしょう。その時一番短い道を求めようとしたのではないでしょうか。私はいつもそうですが、プラハに住んでいる20年間にわたり、自分の故郷で様々な近道を見つけました。この道を行く度時間が2分ぐらい短縮できるような思いが私の頭に浮かびます。それと、発見した近道の中には本当に魅力的な場所もあります!ということで、これらの素敵なスポットを私のツアーで案内したいと思います。

 プラハは長い歴史を持っている中世の町です。特に、最後の約100年間はあまりに発展しすぎたせいで、中心部にスペースがなくなってしまい、人気店のロケーションを要求した大いに栄えていた商売のため大問題でした。そこで、その解決方法としては「パッサージ」が考えられたのです。パッサージはビルの中に隠れた商店街で、プラハに複数あります。例えばヴァ―ツラフ広場には私が知る限りでは少なくとも11のパッサージがあります。そして、その辺りにもより多く見つけられます!これからいくつかを短く紹介させていただきます。

ヴァーツラフ広場に立つ騎馬像(広場を見下ろす)

ヴァ―ツラフの騎馬像から約5分ぐらい歩くと、プラハで一番古いパッサージ「ルツェルナ宮殿」(Palác Lucerna)に到着します。華麗な建築はさておき、常に建物内を循環している「パーテルノステル」というエレベーター、100年間続く映画館とカフェなどが見られます。おもしろいことに、宮殿の地下にそもそもアイスホッケースタジアムがあるべきだったのですが、収容能力不足で、結局種々のイベントが開催される3階建ての会場になりました。隣の「ヴィエトゾル・パッサージ」(Pasáž Světozor)にも映画館がありますが、それに加えて老舗の喫茶店「スヴィエトゾル」で人気のソフトクリームやショートケーキが食べられます。そこから次の近道であるフランティシュカーンスカー庭園(Františkánská zahrada)を通って徒歩5分弱で「アドリア宮殿」(Palác Adria)のパッサージに着くはずです。ロンドキュビズムと屋根はイタリアのルネッサンス様式で建てられたビルで、私の意見では一番豪華な宮殿です。内部の壁は大理石でできていて、もともと保険会社だったので顧客が保険に加入してもらえるように、モザイクの床が様々な災害を表現しています。そして、3階に上がると第一共和国風の(1918年〜1938年)美味しいカフェがあります。

アドリア宮殿のファサード
アドリア宮殿の屋根飾り

そこからヴァーツラフ広場に戻ると、、キューポラがあるアール・ヌーヴォーのビル「コルナ宮殿」(Palác Koruna)です。パッサージに入ってキューポラを下から見ると、モダニズムの構造という絶景がさっとひらけます。なんと、ここには前世紀の90年代まで61年間も営業していた有名な「アウトマット食堂」があって、毎日1万人ぐらいの客たちが1800リトルものビールを飲んだり、5000個のチェコ風オープンサンドを食べたりしました。

コルナ宮殿のクーポラ

最後に紹介したいのはチェコ国立銀行にある「チェコデザインのパッサージ」(Pasáž českého designu)です。コルナ宮殿から徒歩5分ぐらいですが、途中で他の3つのパッサージに寄ることもできます。チェコデザインのパッサージは2016年に公開してから、チェコ出身の美術大学生とプロフェッショナルのアーティストの作品をここに展示しています。さらに、家具及び食器等のようなチェコの歴史において最も傑出している応用美術も発表しています。

チェコデザインのパッサージュ

ここには私のツアーの一部だけ紹介しましたが、実際にはプラハにこのような場所がたくさんあります。おもしろい歴史を持っている建築的に魅惑的なパッサージ、隠れた脇道、未完成の教会やストリップクラブになったプラハの歴史で一番名高いキャバレー等です。 プラハを散歩することはプラハ生まれ育ちの私にも喜びをもたらします。日本に留学していた間国籍の様々な人たちと出会ったとき、自分の故郷を新しくできた友達に紹介したいと数えられないほど思いました。でも、名所よりプラハっ子が好きで良く行くところのほうが興味深いと感じました。名所を訪問することはもちろん価値がありますが、よく知られている場所なので行きやすいと考えます。普通のガイドブックに載っていない場所、外国人が行きにくい場所、プラハ人しか知らない場所へ行ってみたら、より本格的なプラハが味わえるのではないでしょうか。それと、現場の説明だけでなく文化、伝統、チェコ人の日常生活の説明を提供する気さくなガイドがいれば、すがすがしいと思われませんか。私はそんなガイドになることを目指しています。

地域ツアー・Strašnice(ストラシニツェ)のヴィラ

ストラシニツェは現在プラハ10区の一部で、地下鉄で町の中心まで15分ぐらいかかる。隣に「Vršovice」,「Vinohrady」,「Žižkov」などの町名(地区)がある。「Strašnice」という名前の意味は「strašidlo」-「お化け」,または「strach」-「恐ろしさ」である。なぜそのような名前があるかというと、様々な考えがあるが、一つは、昔、多くの池があったが、その池の周りに道が歩きにくく、お化けがいると言われたからだ。現在、池はもうないが、「V Rybníčkách」-「池の間」という通りや学校など、名前だけ残っている。

昔はプラハの一部ではなく、田舎であった。20世紀の始まりぐらいにプラハで最初のヴィラが建てられ、プラハ人が住み始めた。

ストラシニツェのヴィラ

この地域のヴィラはプラハで一番古く、アール・ヌーヴォー風からモダニズム風までのヴィラが多く見られる。たいてい20世紀の20年代に建てられた。 プラハ人が普通に住んでいる。

1.アール・ヌーヴォーのヴィラ

修復されたアール・ヌーヴォーのヴィラである。アール・ヌーヴォーは主に絵画の美術運動として知られているが、建築形式にも多くある。アール・ヌーヴォー の独特は植物のオーナメント、装飾(そうしょく)、曲線などである。

2. 「Růža」というアール・ヌーヴォーのヴィラ

切妻屋根の妻壁側に「Růža」という文字が書いてある。「Růža」はもともと女性の名前で、意味は「バラの花」だ。ヴィラに名前を付けるのは流行だった。典型的なバラが赤、またはピンクの色であるように、ヴィラの色もピンク・赤である。

3. キュビスム風の建物

3番はヴィラではなく、30年代ぐらいのマンションで、建築はキュビスム風だ。キュビスムといったら、すぐパブロ・ピカソの絵画が思い浮かべるかもしれない。キュビスムは幾何学的な形を多く利用している。絵画には多くあったが、建築にはあまり見られない。しかし、チェコの建築にはよくある。プラハの中心にある「Dům u Černé Matky Boží」は代表的なキュビスムの建物である。

4 . Trmalova vila トルマロヴァ・ヴィラ

トルマロヴァ・ヴィラはStrašniceで一番有名な建物とみなされている。現在は普通に住むための建物ではない。

トルマロヴァとは「Trmal」という最初の持ち主「František Trmal」の名前である。現代のオーナーはプラハ10区であり、内部の見学もできる。

1903年に建てられた。建てられた時、周りには田畑しかなかった。建築家は「Jan Kotěra」「ヤン・コテラ」というチェコの建築家だった。コテラの建築された建物がモダンな設備と田舎の懐かしさを繋ぎ、このような建物になった。中には20年代の始めとしては斬新なトイレや浴室などがあり、一方、外には様々な田舎っぽいものがある。例えば、木で作られた部分や、花のオーナメントなどである。フェンスの部分がハートの形をしている。それも田舎っぽいもののひとつである。

妻壁側には「Hosta chlebem, solí, nezdvořáka holí」という文字が見られる。直接訳すると、 「訪問者にパンや塩を、荒い人に棒を」となる。意味は「来てくれる人をお客さんとして扱うけれども、もしその人が無礼者だったら、棒で追い出す 」という意味である。昔、チェコの田舎では、訪問者が来たら、最初にパンや塩ごちそうする習慣があった。

一階には台所、ダイニングホールや、サロン、家政婦の部屋があり、二階には子供の部屋と寝室があった。

博物館としての営業時間は火曜日から金曜日までで、午後2時から4時までとなる。一年中展覧会などがあり、また、結婚式やパーティーのために予約できる。

チェコの面白いお城

アナ・ファイクソヴァー

チェコの歴史の代表的な建物のタイプといえば、すぐお城をイメージします。堅固な城でも、古い廃墟でも、立派なシャトーでも、チェコではあちこちにお城があります。この記事では、その大きい数の中から五つを選んで、紹介します。五つだけを選ぶのはちょっと残念ですが、全部の面白いお城について書いたら、この話は少し長すぎるでしょう。

この五つの城は私の好きな城です。トップファイブではなく、順番は私の今の気分によって決めました。

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でもまず、お城とシャトーとの違いを説明した方がいいと思います。「お城」という建物の重要な機能は防御です。たいてい、丘の上に建てられています。「シャトー」は主に貴族の屋敷です。ほとんどのシャトーは町に建てられていて、広い庭、または公園があります。それにシャトーはお城より新しい建物です。

さて、この五つの中で最初にご紹介するのはPernštejn「ぺルンシテイン」です。このモラヴィアにある大きい城はプラハから190キロぐらい離れています。

Pernštejnの最も面白いことはその古そうな外観です。Pernštejnにいって、その狭い廊下を歩いたり、古い木材のにおいをかぐと、いつも過去に落ちた感じがします。

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二番目はRabí「ラビー」です。南ボヘミアのSušice 「スシツェ」という町の近くにあります。プラハから約150キロです。

Rabíはボヘミアの一番広いお城の廃墟です。14世紀に丘の上に建てられましたが、18世紀に火事で焼失しました。今はもう堅固なお城ではありませんが、遺跡でも、その姿の昔の丈夫さがはっきりみえます。

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次は、プラハから100キロ離れたŽleby 「ジュレビ」という美しいシャトーの話です。

昔のチェコの貴族はたいていみんなドイツ人でした。1946年のベネシュ布告によって、過半数の貴族たちのシャトーは政府に没収されました。でもそのまえに、貴族たちは急いで、ドイツに引っ越しし、シャトーの家具、芸術作品などを持っていきました。そのせいで、たくさんのチェコのお城はちょっと空っぽです。但し、Žlebyは別です。

Žlebyの最も面白いところはその内部です。このシャトーの部屋のなかには家具や飾りが本当に豊かです。そしてそれに、シャトーの周りに静かな公園があります。疲れているなら、そこで休むのは気持ちいいです。

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最後に、二つの面白いお城、シャトーを比べてみます。その二つはČervená Lhota「チェルヴェナー・ルホタ」とHouska「ホウスカ」です。両方は小さくて、ルネッサンス風の建物です。

Červená Lhotaはプラハから南にあって、水に囲まれた、おとぎ話っぽいシャトーです。色々なおとぎ話の映画はここで撮影されました、たとえば、チェコで有名なZlatovláska、(日本語で「金髪のお姫様」)もその一つです。

その一方、Houskaはプラハの北にあり、森に囲まれた、ホラーっぽいお城です。どうしてホラーっぽいのでしょうか。

城のチャペルの下は地獄の入り口だといわれています。その上、Houskaでは、様々な超常現象が起こるそうです。たとえば、城に入ったら、頭が痛くなるとか、チャペルの写真がぼやけてみえるとか、そんなものです。私がHouskaを訪ねたときは、幸いに何も起こりませんでした。ただ、中庭にピンク色の大きな脳が展示されていました。本当に変わっているでしょう。

もし、チェコに旅行しに来たら、この五つ以外でもぜひチェコのお城を見に行ってください。

Říčany

アダム・ノヘイル

Říčanyはプラハに近い人口約1万5千人の街だ。最近、こういう街はよくŘíčanyも含めて「衛星都市」と呼ばれている。だが、実際の衛星都市と違って、Říčanyは自分の歴史と雰囲気がある。

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13世紀にOndřej ze Všechromという貴族がŘíčanyのお城を建てて、おそらく街も建設した。それでその家族は「z Říčan」と呼ばれてきた。その「pánové z Říčan」というŘíčanyの貴族のおかげで、Říčanyは栄えている街になってきた。しかし15世紀にフス派の戦争の時代の間にŘíčanyのお城が火事にあった。その後、お城の周りに住んでいる人はお城の石を使って自分の家を建てた。このようにお城の壁が段々なくなっていた。現在、お城の丘には壁が二つしか残っていないものの、街中の近くて、美しい平和なところである。三十年戦争の間に街は破壊されて、その後再建された。

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現在のŘíčanyにとって大切な時代は第1次と第2次世界大戦の間の時代であった。そのとき、街はもう一度栄えて、家と建物がたくさん建てられた。特に多くの裕福な家族がŘíčanyにすてきな別荘を建てた。この伝統は続き、第2次世界大戦の後も、プラハより静かなところに住みたい人はよくŘíčanyを選んだ。今でも、他のプラハの周りの街と比べてきれいな庭のある家が多くて、高層ビルがほとんどない。

私はプラハで生まれたが、祖父と祖母はŘíčanyに住んでいて、私は小さい子供の頃からŘíčanyに行っていた。その時、友達と外で遊んだり、夏に自転車に乗ったり、冬にそりに乗ったりして、すばらしい学校の休みだった。祖母と祖父と一緒に庭で働くことも好きになった。そういうことは子供がプラハでできない。いい子供の時の思い出だけという訳ではない。今Říčanyに住んでいる理由は同じようだ。街のどこへも自転車で行くことができるし、きれいな自然も近くにあるし、静かで美しい街なことだ。映画館、屋内プール、商店街、たくさんのレストランなどもあることだ。更に、プラハの中心まで電車で27分しかかからない。

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Josef Ladaというチェコの有名な画家はŘíčanskoの周りのきれいな景色と絵のような村からインスピレーションを得たので、この地方は「ラダの地方」と呼ばれている。ハイキング道もサイクルルートも多いので、Říčanyからラダの地方にいい小旅行に行くことができる。それでにぎやかなプラハにいったら、気分転換にぜひŘíčanyにも行ってみて下さい!

大体の発音

Říčany                              ジーチャニ

Ondřej ze Všechrom        オンジェイ・ゼ・フシェフロム

王の道

ダヴィド・レザツキ

王の道は、元の王宮、現在のObecni dumからプラハ城の聖ヴィート大聖堂までつながっています。この道は1432年から1836年まで、王様になる王子や王位継承権を持っている人が歩んだ道でした。王様になる王子を王の行進が大聖堂まで連れていきました。

王の道1

王宮から出発してすぐ後、火薬塔を通ってCeletnáに進みました。昔、火薬塔は王宮を敵から守っていました。けれど後に火薬の倉庫として利用されて、火薬塔という名前が付けられました。

Celetnáを通って、旧市街広場に着きました。現在は広場にヤン・フスの像が見えます。ヤン・フスは貧しい人のための説教者で、王様や法王などに反対する教示を述べていました。そのため処刑されました。ですがヤン・フスの意志は引き継がれて、フス派の革命に至りました。

王の道2

旧市街で見える他の面白いものは天文時計です。毎時キリストの使徒の像が出ています。

旧市街から王の行進はKlementinum に移動していきます。Klementinum は知恵の宝庫であり、国立図書館、天文学、気象学といった科学と関係があることの中心でした。現在Klementinumには国立図書館があります。おかげで知恵の宝庫の名に載り続けています。

王の道3

そこから、王の行進はカレル橋を渡ります。カレル橋は1357年にカレル四世によって建てられました。橋には宗教的な像がいっぱいあって、一番有名なのはヤン・ネポムツキーの像です。うわさによると、彼は王様と議論して、責められて、橋から落とされました。何について、また、なぜけんかになったのかは不明です。今日では、ネポムツキーが落とされたといわれる場所に、皆が記念に触る小さい十字架があります。

王の道4

橋を渡った後で、王子とその王の行進が坂を登って、プラハ城の城門に着いて、大聖堂で戴冠式が行われました。大聖堂はヴァーツラブ一世によって建設されました。聖ヴィート大聖堂は国宝と前の王様、たとえばカレル4世やヴァーツラブ4世などの遺体を保存しています。

王の道5

王の道は、美しい建物や長い歴史を、一つの忘れられないドキドキさせる経験にまとめています。したがって、王の道は誰でもにできるお勧めです。いつかプラハに来たら、ぜひ見に行ってくれてください。

私の街 Poříčany (ポジーチャニ)

ヤン・リビフ

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「Poříčany」という村は小さくても、プラハより歴史がある所がなくても、私の故郷なのだ。だからみなさんにPoříčanyを紹介したいと思う。Poříčanyはプラハから東の方へ40キロぐらいだ。「Šembera」という川が中央をとおって流れている。住民は約1500人で、その1500人の中で、平均年齢が45歳だ。つまり、住民は年をとっている人ばかりだということである。おそらく、若い人はだんだんプラハに引越ししたのだろう。

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「Poříčany」という名前は、面白い意味を持っているのだ。「Po」と「říčany」に分けられる。「Po」というのはチェコ語で「後」または「~に沿って」という意味を表す。そして、「Říčany」というのは「川岸にある集落」という意味を持っているのだ。ゆえに、「Poříčany」は「川岸に沿う街」というものである。その「川岸」はもちろん、Šemberaの川岸だ。

歴史

Poříčanyの歴史書によると、8世紀Šemberaの河岸で盗賊に対する防衛のために集落が作られたそうだ。なぜかというと、中世、川岸に立っている街の征服が結構難しかったからだ。

14世紀半ばに教会が建てられたそうだ。その教会は18世紀の農民反乱によって破壊されて同じ場所に新しい教会が建設された。現在、この教会は、Poříčanyの象徴であり、一番古い建物である。Poříčanyには他の歴史がある場所がない。第二次世界大戦中、教会をのぞいて、完全に破壊されたからだ。

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19世紀に、プラハからコリーン行きのPoříčanyを通る線が建設された。Poříčanyは中央ボヘミアの交通ジャンクションとして不可欠になってきた。

周りの自然と面白い場所

古代、ポジーチャニの周りに森が広がっていた。残念ながら、今は全域農業に利用されているから、森は一つしか残っていない。それは、私のジョギングをする大好きな「Kersko」という森だ。

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たぶん、一番面白い場所は近くにある街の「Sadská」の自然的に形成した砂丘だろう。こんな珍しい自然現象はどうやって形成したのかを調べてみると、第四期その領域に「Labe」川の河床があって流れて来た砂浜の沖積層が集まって形成したということがわかる。今の砂丘は「Písečný převis u Píst」と呼ばれる。この砂丘を見に行きたい場合は、かなりの距離歩くことになることを覚悟してください。Sadská駅から砂丘まで一時半間ぐらいかかるからだ。

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砂丘への行き方は、まずPoříčanyから「Nymburk」行きの電車に乗ってSadskáまで行く。Sadská駅で降りると、砂丘の案内板がすぐに見えるので、道に迷うことはない。

Poříčanyは静かできれいな自然に囲まれている村で、面白い場所もあるので、時間と興味があったら、ぜひ見に来てください。

私の街 Šumperk

テレザ・ヴェルカー

Šumperkは、13世紀に成立したそうです。Šumperkという名前はドイツ語のSchönberg(きれいな山)から作られました。Šumperkは災害を何回も受けたと言われています。1513年と1669年に火災が起きて、1591年に洪水が起きたそうです。17世紀にはŠumperkとŠumperkの近隣で魔女狩りが行われていたそうです。魔女狩りとは、魔女または妖術を使う被疑者に対する裁判、あるいは法的手続を経ないで私刑することです。しかし政治的に嫌な人を訴追し、刑罰を加えることもありました。今ŠumperkにおけるGeschaderの家で魔女狩りについての展覧会が行われています。昔その家に魔女狩りの犠牲者が住んでいたと言われているからです。

Geschaderの家

Šumperkで、ひどいことばかりが起きているというわけではありません。Šumperkには美しい建物が何軒もあって、「小さいウィーン」というあだ名も持っています。理由は、19世紀にŠumperkに住んでいた裕福なビジネスマンが、自分の家の建設のために、ウィーンの有名な建築家をŠumperkに招待したことです。一番大切な建物の中の一つは19世紀の終わりに建てられた町の図書館です。もともとは個人の屋敷でしたが、1970年に図書館になりました。

町の図書館

他の大切な建物はVila Dorisという屋敷です。図書館と同じ時期に建てられました。1945年の後公立になって、現在は主に子供と若者たちのために利用されています。その目的で、1955年に夏の劇場も設立されたのです。

Vila Doris

面白い点は、Šumperkと関係がある有名人が二人います。一人目は五輪のスキーの選手のAles Valentaです。彼は1973年にŠumperkで生まれました。まず、1998年に長野における冬のオリンピックで4位になって、ソルト・レイク・シティーで行われた2002年の冬のオリンピックで金メダルを取りました。2007の5月に健康の問題のため、プロ・スポーツマンとしての生活を辞めました。

Aleš Valenta
二人目はJan Zajicです。 Jan Zajíc はŠumperkの工業高校を卒業しました。1969年の2月にJan Palachと同じようにソ連の占領に抗議して、プラハのヴァーツラフ広場で焼身自殺しました。

Jan Zajíc

Kutná Hora クトナー・ホラ

ダヴィド・ムラーチェク

クトナー・ホラは中央ボヘミア州の東の地域にあり、町の歴史的な中央がユネスコの世界文化遺産に指定された。プラハから電車で一時間ぐらいで行けるし、様々な綺麗な教会も見られるので、プラハなどに泊まれば、日帰り旅行に良い場所だと思う。

町は昔から銀の採掘に関わっている。それで町の名前もkutatというチェコ語の言葉「採掘する」に由来している。採掘が10世紀ぐらい始まり、13世紀末にヨーロッパで採掘されていた銀の量の1/3を占めていた。その時にクトナー・ホラはボヘミアの王ヴァーツラフ2世の決まりによってプラハのグロショという銀貨が鋳造されている場所になった。そして次の世紀にクトナー・ホラに世界で一番深い500メートルの鉱山があった。しかし時間が経つにしたがい、銀の量がなくなってきたので、銀の採掘が18世紀に終わったのだ。

町の西方に聳えている教会は聖バルボラ教会だ。場所は電車の駅から遠いが、駅から出ているバスが教会の近くに停まる。14世紀に教会の建造が始められ、1556年に建築が終わったが、戦争の時ダメージを受け、火事にも遭ったので、今の教会の外部は1906年に再建された。教会の奥が観光できるだけではなく、そこで折々クラシック音楽の演奏も聴くことができる。

聖バルボラ教会

教会のすぐ近くにイエズス修道学校があり、現在その場所が中央ボヘミア州の美術館として使用されている。なお、そこから5分歩くと、フラーデクという場所に着く。それは銀の博物館で、そこに中世の坑道も見学できる。

ここを少し離れて、イタリア宮殿という場所がある。昔の時はそこでプラハのグロショが鋳造されていて、またチェコの王ヴァーツラフ4世の宮殿であったが、今は鋳造の歴史の博物館という場所で、偶にそこで結婚式が行われているそうだ。なぜ場所の名前にイタリアがついているかというと、そこで銀貨を鋳造している人たちはイタリアのフィレンツェからの人だったからだ。

イタリア宮殿

東の方に行くと、セドレツというの町の地区に着く。そこには1142年に建てられた聖母マリア修道院教会がある。チェコでは一番古いシター会の教会だ。

聖母マリア修道院教会

その教会を出て、少し歩くと全聖人の墓地教会と納骨堂という場所に来る。昔、教会の周りでペストや戦争で死んだ人が4万体以上埋められた。15世紀には、墓地に埋められた人の骨は教会に置いてあって、教会の神父は骨を積み上げ、骨のピラミッドを作ったそうだ。とはいえ、現在の骨の装飾は芸術家によって作られた。この教会では骨から作られたシャンデリアも見られる。

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クトナー・ホラは特に歴史が好きな人にとっておすすめだが、誰でも楽しめる場所だと思う。

私の街 Sušice (スシツェ)

ブルズロヴァー・カテリナ



私にとって一生忘れられない町は、チェコの西南にある国立公園Šumavaの門とも呼ばれているSušiceである。Sušiceといえば、世界に輸出されていた有名なSOLO工場のマッチを思い出すチェコ人はまだ多いと思う。残念ながら、世界ではマッチの使用量がだんだん減少してきた。その結果、SOLO の工場は別の会社に売られてしまった。そして工場がインドに移動させられて、Sušiceの知名度が低くなってしまった。そういった背景から、Sušice の他の魅力について述べていきたい。

私はこの小さくて素敵な町に生まれ育ち、20年も暮らしていた。プラハに来て初めてSušiceを囲んでいる 静かな自然が恋しくなり、改めてSušiceのいいところに気付いた。例えば、雨が比較的少ないところ、プラハとは違うゆとりのある生活ができるところ、 頻繁に知り合いに会えるところなどである。また、町が小さいためにどこへ行っても思い出の場所をたくさん通り、懐かしくなるというところだ。
Sušiceは小さい町のわりには、できることがたくさんある。その中から、いくつかのことを三つのグループに分け、紹介したい。

スポーツ
Sušice に来る人の大多数はアクティブな休暇を過ごすために来る。夏には綺麗な川を下るカヤックがよく見られる。川沿いには広い公園があり、ジョギングやサイクリ ングやインラインスケートなどもできる。また、色々なアトラクションが開かれて、中にはアスレチック施設が例として挙げられる。サッカーやテニスやサイク リングの色々な大会は、参加者の立場からでも見る側からでも楽しめる。冬には雪がたくさん降るので、Sušiceの周りのゲレンデでスキーやスノーボード などの雪遊びができる。

リラックス
たくさん運動した後には、Sušiceに新しくできたプールのリラックスゾーンで体を休ませ る。Sušiceのプールにはヨーロッパにでも珍しい機能が設置されていて、注目を集めている。それはカヤックの冬場のトレーニングに便利な水の逆流機能 である。そのおかげでカヤックに乗っている人は一生懸命漕いでも水の上で同じ場所で泳げる。美味しい料理が食べたいなら、Sušiceのすぐとなりにある山の上には地元の人たちに有名なレストランがあり、この山からの町の眺めは必見である。

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カルチャー
Sušiceの若者の間にロックバンドを結成することが流行になっているので、コンサートやライブの数が相当多い。町の周りにはお城がいくつかあり、見学のほかに夏になったらお城の中で劇やコンサートといった様々なパフォーマンスが見られる。