ジシュコフ(プラハ3区)はプラハの中心の東方面に2kmに位置している。公共交通手段が多く、さまざまなトラムやバス、地下鉄A線など多くの公共交通手段も通っており、非常に便利である。
ジシュコフの歴史といえば, 1875年にまだ「クラーロフスケー・ヴィノフラディ」という村として初めて地方自治体を確立したことに始まる。二年間でクラーロフスケー・ヴィノフラディの辺りが著しく広がり、二つの部分に分かれてしまった。新しい部分は有名な軍隊の隊長の名前をとって「ジシュコフ」と名づけられた。独立した街になったのは1881年である。第一次世界大戦の後1922年、他の37の自治体に合併され、大きなプラハの一つの部分になった。現代のジシュコフは古く伝統的な労働者向けの家と近代のモダンな建物が混在し、ボエームな地区とよく呼ばれている。
最初の観光スポットはジシュコフテレビ塔{1}である。プラハの建築で最も高く、塔としてはチェコ全体で最も高く、216mの高さで、プラハのシンボルになった。1970年代に建設計画が始まって、実際の施工は1990年からだった。塔には3つのデッキがあり、レストランやバーや観測所だけでなく、シングルルームのホテルまで備えている。塔を見上げたら、すぐ気づくのは有名な赤ちゃんの象である。チェコのアーティストのダビット・チェルニーによって作られた。始めに十人の赤ちゃんがアメリカのシカゴとイギリスのロンドンで公開され、2020年からジシュコフに設置され、テレビ塔を登っている。もちろん、テレビ塔は皆に好まれただけでなく、昔から論争の的となっていたこともある。
プラハの中心であったのにもかかわらず、17世紀の終わりに、新しいユダヤ人の墓地が作られた。なぜかというと、当時疫病が発生し多くの人が亡くなったため、墓場が足りなかったからだ。その上ヨセフ2世が町内の埋葬を法律で禁止された。19世紀が終るまでに約三万八千人がそこで埋葬された。残念ながら社会主義時代の政治が宗教を尊敬せず、公園とテレビ塔を作る予定のせいで、墓地の三分の二以上をつぶしてしまった。現代、墓地の最も古い部分しか残っていない。
15分でアクロポリス宮殿{3}と電話と電信の交換の本館{4}を通り、ロッフの教会 {5}に着ける。バロックスタイルで再建され、ジシュコフの最も古い教会である。丸い形なのにロトンダではない!昔のぶどう園の所で建てられた疫病に関するクリスト教の教会である。次の観光スポットはオルシャニの墓地{5}になる。プラハで最も広く、50ヘクタールで広げている墓地である。カフカの作家などチェコの有名人を含め、約200万人が埋葬された場所である。
1kmぐらい歩いて行き、ジシュコフの第二目のシンボルのヴィートクフという坂を登る。ヴィートコフ国民記念館{6}があり、きれいな景色がみえ、二つの歴史的なマイルストーンに関する場所だ。最初は軍隊の主任のヤン・ジシュカが1420年に戦った所として有名になり、そして二番目はチェコ国民の20世紀に関する歴史ミュージアムがある場所である。その上、遠くからも見ることができるのは、1950年に作られ、ヨーロッパで一番大きなヤン・ジシュカの騎馬像である。
帰り道は坂を下り、途中から古いジシュコフの特徴なバルコニーがある建物{7}を見、最後のスポットに向かう。次はチェコの有名な様々な能力がある架空の天才ヤーラ・ツィムルマンの劇場{8}である。最近は外国人向けに英語で演じている劇に人気がある。
どうしてジシュコフへ?プラハの中心から近いし、パリのモンマルトルのようにピトレスクなのにも関わらず、大勢の外国のお客さんが見落としている市区である。お客さんの興味に応じてカスタマイズまでできる。宗教に興味を持っている人なら伝統的なユダヤ人のお風呂に入れ、工芸学が好きな人はテレビ塔が登れ、歴史を熱心に学んでいる人にもおすすめだと思う。
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