Říčany

アダム・ノヘイル

Říčanyはプラハに近い人口約1万5千人の街だ。最近、こういう街はよくŘíčanyも含めて「衛星都市」と呼ばれている。だが、実際の衛星都市と違って、Říčanyは自分の歴史と雰囲気がある。

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13世紀にOndřej ze Všechromという貴族がŘíčanyのお城を建てて、おそらく街も建設した。それでその家族は「z Říčan」と呼ばれてきた。その「pánové z Říčan」というŘíčanyの貴族のおかげで、Říčanyは栄えている街になってきた。しかし15世紀にフス派の戦争の時代の間にŘíčanyのお城が火事にあった。その後、お城の周りに住んでいる人はお城の石を使って自分の家を建てた。このようにお城の壁が段々なくなっていた。現在、お城の丘には壁が二つしか残っていないものの、街中の近くて、美しい平和なところである。三十年戦争の間に街は破壊されて、その後再建された。

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現在のŘíčanyにとって大切な時代は第1次と第2次世界大戦の間の時代であった。そのとき、街はもう一度栄えて、家と建物がたくさん建てられた。特に多くの裕福な家族がŘíčanyにすてきな別荘を建てた。この伝統は続き、第2次世界大戦の後も、プラハより静かなところに住みたい人はよくŘíčanyを選んだ。今でも、他のプラハの周りの街と比べてきれいな庭のある家が多くて、高層ビルがほとんどない。

私はプラハで生まれたが、祖父と祖母はŘíčanyに住んでいて、私は小さい子供の頃からŘíčanyに行っていた。その時、友達と外で遊んだり、夏に自転車に乗ったり、冬にそりに乗ったりして、すばらしい学校の休みだった。祖母と祖父と一緒に庭で働くことも好きになった。そういうことは子供がプラハでできない。いい子供の時の思い出だけという訳ではない。今Říčanyに住んでいる理由は同じようだ。街のどこへも自転車で行くことができるし、きれいな自然も近くにあるし、静かで美しい街なことだ。映画館、屋内プール、商店街、たくさんのレストランなどもあることだ。更に、プラハの中心まで電車で27分しかかからない。

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Josef Ladaというチェコの有名な画家はŘíčanskoの周りのきれいな景色と絵のような村からインスピレーションを得たので、この地方は「ラダの地方」と呼ばれている。ハイキング道もサイクルルートも多いので、Říčanyからラダの地方にいい小旅行に行くことができる。それでにぎやかなプラハにいったら、気分転換にぜひŘíčanyにも行ってみて下さい!

大体の発音

Říčany                              ジーチャニ

Ondřej ze Všechrom        オンジェイ・ゼ・フシェフロム

私の街 Šumperk

テレザ・ヴェルカー

Šumperkは、13世紀に成立したそうです。Šumperkという名前はドイツ語のSchönberg(きれいな山)から作られました。Šumperkは災害を何回も受けたと言われています。1513年と1669年に火災が起きて、1591年に洪水が起きたそうです。17世紀にはŠumperkとŠumperkの近隣で魔女狩りが行われていたそうです。魔女狩りとは、魔女または妖術を使う被疑者に対する裁判、あるいは法的手続を経ないで私刑することです。しかし政治的に嫌な人を訴追し、刑罰を加えることもありました。今ŠumperkにおけるGeschaderの家で魔女狩りについての展覧会が行われています。昔その家に魔女狩りの犠牲者が住んでいたと言われているからです。

Geschaderの家

Šumperkで、ひどいことばかりが起きているというわけではありません。Šumperkには美しい建物が何軒もあって、「小さいウィーン」というあだ名も持っています。理由は、19世紀にŠumperkに住んでいた裕福なビジネスマンが、自分の家の建設のために、ウィーンの有名な建築家をŠumperkに招待したことです。一番大切な建物の中の一つは19世紀の終わりに建てられた町の図書館です。もともとは個人の屋敷でしたが、1970年に図書館になりました。

町の図書館

他の大切な建物はVila Dorisという屋敷です。図書館と同じ時期に建てられました。1945年の後公立になって、現在は主に子供と若者たちのために利用されています。その目的で、1955年に夏の劇場も設立されたのです。

Vila Doris

面白い点は、Šumperkと関係がある有名人が二人います。一人目は五輪のスキーの選手のAles Valentaです。彼は1973年にŠumperkで生まれました。まず、1998年に長野における冬のオリンピックで4位になって、ソルト・レイク・シティーで行われた2002年の冬のオリンピックで金メダルを取りました。2007の5月に健康の問題のため、プロ・スポーツマンとしての生活を辞めました。

Aleš Valenta
二人目はJan Zajicです。 Jan Zajíc はŠumperkの工業高校を卒業しました。1969年の2月にJan Palachと同じようにソ連の占領に抗議して、プラハのヴァーツラフ広場で焼身自殺しました。

Jan Zajíc

Kutná Hora クトナー・ホラ

ダヴィド・ムラーチェク

クトナー・ホラは中央ボヘミア州の東の地域にあり、町の歴史的な中央がユネスコの世界文化遺産に指定された。プラハから電車で一時間ぐらいで行けるし、様々な綺麗な教会も見られるので、プラハなどに泊まれば、日帰り旅行に良い場所だと思う。

町は昔から銀の採掘に関わっている。それで町の名前もkutatというチェコ語の言葉「採掘する」に由来している。採掘が10世紀ぐらい始まり、13世紀末にヨーロッパで採掘されていた銀の量の1/3を占めていた。その時にクトナー・ホラはボヘミアの王ヴァーツラフ2世の決まりによってプラハのグロショという銀貨が鋳造されている場所になった。そして次の世紀にクトナー・ホラに世界で一番深い500メートルの鉱山があった。しかし時間が経つにしたがい、銀の量がなくなってきたので、銀の採掘が18世紀に終わったのだ。

町の西方に聳えている教会は聖バルボラ教会だ。場所は電車の駅から遠いが、駅から出ているバスが教会の近くに停まる。14世紀に教会の建造が始められ、1556年に建築が終わったが、戦争の時ダメージを受け、火事にも遭ったので、今の教会の外部は1906年に再建された。教会の奥が観光できるだけではなく、そこで折々クラシック音楽の演奏も聴くことができる。

聖バルボラ教会

教会のすぐ近くにイエズス修道学校があり、現在その場所が中央ボヘミア州の美術館として使用されている。なお、そこから5分歩くと、フラーデクという場所に着く。それは銀の博物館で、そこに中世の坑道も見学できる。

ここを少し離れて、イタリア宮殿という場所がある。昔の時はそこでプラハのグロショが鋳造されていて、またチェコの王ヴァーツラフ4世の宮殿であったが、今は鋳造の歴史の博物館という場所で、偶にそこで結婚式が行われているそうだ。なぜ場所の名前にイタリアがついているかというと、そこで銀貨を鋳造している人たちはイタリアのフィレンツェからの人だったからだ。

イタリア宮殿

東の方に行くと、セドレツというの町の地区に着く。そこには1142年に建てられた聖母マリア修道院教会がある。チェコでは一番古いシター会の教会だ。

聖母マリア修道院教会

その教会を出て、少し歩くと全聖人の墓地教会と納骨堂という場所に来る。昔、教会の周りでペストや戦争で死んだ人が4万体以上埋められた。15世紀には、墓地に埋められた人の骨は教会に置いてあって、教会の神父は骨を積み上げ、骨のピラミッドを作ったそうだ。とはいえ、現在の骨の装飾は芸術家によって作られた。この教会では骨から作られたシャンデリアも見られる。

納骨堂OLYMPUS DIGITAL CAMERA

クトナー・ホラは特に歴史が好きな人にとっておすすめだが、誰でも楽しめる場所だと思う。

私の街 Sušice (スシツェ)

ブルズロヴァー・カテリナ



私にとって一生忘れられない町は、チェコの西南にある国立公園Šumavaの門とも呼ばれているSušiceである。Sušiceといえば、世界に輸出されていた有名なSOLO工場のマッチを思い出すチェコ人はまだ多いと思う。残念ながら、世界ではマッチの使用量がだんだん減少してきた。その結果、SOLO の工場は別の会社に売られてしまった。そして工場がインドに移動させられて、Sušiceの知名度が低くなってしまった。そういった背景から、Sušice の他の魅力について述べていきたい。

私はこの小さくて素敵な町に生まれ育ち、20年も暮らしていた。プラハに来て初めてSušiceを囲んでいる 静かな自然が恋しくなり、改めてSušiceのいいところに気付いた。例えば、雨が比較的少ないところ、プラハとは違うゆとりのある生活ができるところ、 頻繁に知り合いに会えるところなどである。また、町が小さいためにどこへ行っても思い出の場所をたくさん通り、懐かしくなるというところだ。
Sušiceは小さい町のわりには、できることがたくさんある。その中から、いくつかのことを三つのグループに分け、紹介したい。

スポーツ
Sušice に来る人の大多数はアクティブな休暇を過ごすために来る。夏には綺麗な川を下るカヤックがよく見られる。川沿いには広い公園があり、ジョギングやサイクリ ングやインラインスケートなどもできる。また、色々なアトラクションが開かれて、中にはアスレチック施設が例として挙げられる。サッカーやテニスやサイク リングの色々な大会は、参加者の立場からでも見る側からでも楽しめる。冬には雪がたくさん降るので、Sušiceの周りのゲレンデでスキーやスノーボード などの雪遊びができる。

リラックス
たくさん運動した後には、Sušiceに新しくできたプールのリラックスゾーンで体を休ませ る。Sušiceのプールにはヨーロッパにでも珍しい機能が設置されていて、注目を集めている。それはカヤックの冬場のトレーニングに便利な水の逆流機能 である。そのおかげでカヤックに乗っている人は一生懸命漕いでも水の上で同じ場所で泳げる。美味しい料理が食べたいなら、Sušiceのすぐとなりにある山の上には地元の人たちに有名なレストランがあり、この山からの町の眺めは必見である。

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カルチャー
Sušiceの若者の間にロックバンドを結成することが流行になっているので、コンサートやライブの数が相当多い。町の周りにはお城がいくつかあり、見学のほかに夏になったらお城の中で劇やコンサートといった様々なパフォーマンスが見られる。

私の街 Litoměřice

マリエ・ヌンハルドゥトヴァー

私はLitoměřiceを紹介したいと思います。私がこの町を好きな理由は、そこのギムナジウムに行ったこと、それにそこに三年間住んでいたことです。

Litoměřiceは、ボヘミア地方北部、エルベ川とOhře川の合流地点に位置しています。人口はおよそ24000人だから、あまり大きくないと思います。町の周囲にたくさんぶどう園があって、昔から有名なワインの産地です。特にŽernoseckéというワインは人気があります。

図4

町の近くにČeské středohoříという山脈もあります。ハイキングが好きな人に推薦できる場所です。


Litoměřiceはチェコで最も古い町の一つです。この地域は、石器時代から人々が居住していました。町の成立の前にここにプシェミスル朝の城が立っていました。1225年ごろに国王の町の地位を得ました。中世を通じてLitoměřiceは神聖ローマ帝国の重要な取引場所でした。白山(ビーラー・ホラ)の戦いの後, 多くの人は彼らの宗教のために町を離れることを強制されました。その結果としてチェコの住民は減って、ドイツの住民は大多数になりました。

第二次世界大戦の間Litoměřiceは第三帝国の一部でした。町には捕虜の強制収容所がありました。ここの捕虜は近くの丘の中にあった秘密の工場で働くことを強制されました。工場の名前はRichardでした。今はRichardの一部は放射性廃棄物処分場として使われています。図6

図7

Litoměřiceにたくさん観光スポットがあります。たとえばゴシックの城とかバロックの大聖堂とか、「猫」という岩とかKalichという展望台です。

図9

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でも最も面白いのは、カレル・ハイネック・マーハの部屋だと思います。カレル・ハイネック・マーハ (1810-1836)は 、チェコのロマン派詩人の中で一番有名な詩人でした。マーハは1836年にLitoměřiceへ引っ越して、法律事務所で働いていました。ある日Litoměřiceで大きい火事が起きました。マーハは火事を消すのを手伝いました。でも彼は火事を消すのに用いられた水を飲んで、コレラで亡くなりました。マーハはLitoměřiceの墓地に葬られました。でも1938年にマーハの遺体はプラハのVyšehradの墓地へ移されました。

Litoměřiceにはたくさん面白い観光スポットがあるので、良い旅行先だと思います。

私の街 広尾

カロリーナ・スルボヴァー

一番好きな街を選ぶとしたら、広尾と言う場所になる。その理由はいったい何であろうか。実は私はプラハ生まれだが、生まれて3ヶ月から5歳まで父の仕事で家族みんなで東京に引っ越しして、その5年の間広尾にあるチェコ大使館に住んでいた。なので、子供のときからの多くの思い出や経験、初めての幼稚園や友達などは広尾に強く関連している。そのような理由で、広尾は私にとって世界でどこにもない特別な場所だと感じている。

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広尾とその周辺は、「住んでみたい街」というような調査で何年間も連続でトップクラスにランクインされている。その人気がある理由と、広尾の特徴を述べよう。まずはその位置だ。上述したように、広尾は渋谷区に位置し、通っている路線は地下鉄日比谷線だけであるが、周囲の六本木、青山、麻布、恵比寿など、他の人気がある場所には歩いて10分ほどである。それに渋谷と新橋行きのバスが利用できるので、とても便利だ。

次の点はインターナショナルなイメージである。その理由の一つは、多くの国の大使館や豪邸があり、住んでいる外国人の数も多い。そして、そのイメージを象徴する雰囲気あるショップやレストランが建ち並んでいることや、ヨーロッパなどから輸入した商品を売っているナショナルマーケットがあることだ。その上、チェコ大使館の近くにカレル大学の学生も毎年留学できる有名な聖心女子大学や他のいろいろなインターナショナルスクールなどがある。


広尾駅の隣には、有栖川宮記念公園があり、その中には、都立中央図書館もある。広尾とその周辺にはチェコ大使館のほかに、ドイツ、ペルー、フランス、コンゴなどの大使館がある。

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日本のチェコ大使館にあるチェコセンターは、チェコの文化を広報したり、チェコと関係のあるイベント、例えば映画上映、コンサート、展覧会などを行っている。しかし、広尾にある、チェコと関係のある建物は大使館を除くと一つだけだ。それは日本に3店しかないチェコ料理店の一つ『ホスポダ アノプロシーム』と言うお店である。メニューにはチェコの伝統的な料理、例えばグラーシュ、ブランボラーキ、スヴィーチュコヴァーなどがあり、お酒に関しては、色々な種類のビールが飲めるが、チェコ人からすると、少し値段が高いように感じられる。200コルナほどするピルスナーなどはやはり海外ならではの高い値段設定である。

以上のことをまとめると、広尾の特徴は特に静かな住宅街ということである。多くの人が住みたいと思う、理想的な住宅街だが、一つデメリットを挙げるなら非常に家賃が高いということだろう。